メシアン 世の終わりのための四重奏曲の作曲、初演された場所 ゲルリッツの捕虜収容所 / 『時の終わりへ メシアンカルテットの物語』レベッカ・リシン 著を読む

昨年プラハ聴いた印象的なコンサート、そして突然出会った一冊の書籍、これらが今回の旅の行き先であるドイツのゲルリッツ(Görlitz)とポーランドのズゴジェレツ(Zgorzelec)を決定的にした。
コンサートの演目はメシアンの『世の終わりのための四重奏曲(時の終わりのための四重奏曲)』、その後に出会った書籍は『時の終わりへ メシアンカルテットの物語』、これらがきっかけとなって、メシアンがかつて収容されていた捕虜収容所 Stalag VIII-A のあるポーランドとドイツの国境の町を訪れた。

● プラハでのコンサート、古書店で出会った書籍

昨年の印象的なコンサートとはこちら。ずっとディスクで愛聴していた メシアン『世の終わりのための四重奏』の生演奏をプラハで初めて聴いた。

そして、出会った書籍は『時の終わりへ メシアンカルテットの物語』 (叢書・20世紀の芸術と文学) レベッカ・リシン著

時の終わりへ メシアンカルテットの物語 レベッカ リシン著

この本が取り扱っている曲『世の終わりのための四重奏』は難曲でもあるし、現代音楽でもあることから、生の演奏にそう度々触れる機会はない。そのプラハで聴いた際の鑑賞メモにはこうある。

●プラハで生の演奏に触れたメシアン『世の終わりのための四重奏』

夜は2夜目の@ルドルフィヌム/ドヴォルザーク・プラハ・フェスティバル2018。
曲目はシェーンベルク『浄夜』とメシアン『世の終わりのための四重奏曲』という最強の室内楽の組み合わせ。どちらも大昔から事あるごとに聴いていた曲であり、期待も大きかった。奏者のリーダー、ヨゼフ・シュパチェック(Josef Špaček)はチェコフィルのコンマスで32歳、たいした腕前で二つの曲をとりまとめていた。シャロン・カム(Sharon Kam)もクラリネット奏者として人気がでている方、メシアンでは長く複雑なソロがあり大熱演である。

『浄夜』は弦楽合奏版のほうで聴き慣れてしまったせいか弦楽六重奏版ではあっさり感があったが、明瞭な演奏であったので曲の構造を知る上で小編成の室内楽版というのはよかった。また、各楽器の旋律もよく聞き分けられ、それはそれで耳に残る。「浄夜」は、デーメルの詩に基づいた曲で、その詩は「恋人とは別の男の子供を身ごもった女が悩みを打ち明け、男はその子を自分の子として認知する」という内容。音楽は内容に見合ったロマンティックな標題音楽になっている。

メシアンのほうは情感たっぷりでホールに響き渡る各楽器のソロがじんわり染みる。学生の時に読んだレコードのライナーには大戦で捕虜となった作曲家のメシアンが、収容所でありあわせの楽器(ヴァイオリン、クラリネット、チェロ、ピアノ)かつチェロは弦が足りない状況の下で作曲ならびに初演を強いられたとあった。そして1月の酷寒の収容所内で初演され云々・・・と、たいそう叙情的な状況が胸にきた。今ではこの話も諸説あるようだが作曲から初演の背景が捕虜収容所の厳しい環境と言うのはとてもドラマティックである。

当時の捕虜収容所 Stalag VIII-A の写真@ゲルリッツ歴史博物館

これらの曲を半月の夜のプラハで聴き、デーメルの詩や酷寒の収容所の演奏会に思いを馳せるという、アパートへの帰路は物憂げながらも少々豊かな気分となった。

● 『メシアンの芸術』というシリーズの一枚、『世の終わりのための四重奏』のライナー

鑑賞メモに書いたレコードとはエラート・レーベルからリリースされた『メシアンの芸術』というシリーズの一枚。ユゲット・フェルナンデス(ヴァイオリン)、ギイ・デュプル(クラリネット)、ジャック・ネイルス(チェロ)、マリー=マドレーヌ・プティ(ピアノ)の演奏によるもので、ライナーは船山隆氏による。

メシアンの芸術シリーズの1枚 『世の終わりのための四重奏』

このレコードのライナーの印象は当時クラシックを聴き始めたばかりの学生だった自分には強烈だった。末尾に抜粋文章を載せたが、かいつまむとこんな感じだ。

この曲は1941年1月15日、ポーランドの国境近くのシレジア地方のゲルリッツの第8A捕虜収容所で、5000人の捕虜という聴衆を前にして初演された。第2次世界大戦の開始とともに一兵卒としてフランス軍に召集されたメシアンは序盤戦で捕虜になってしまう。
収容所に連行されるやいなや、捕虜はすべての所持品がとりあげられるが、メシアンの雑のうに入っていたのはバッハの『ブランデンブルク協奏曲』、ベルクの『行情組曲』、ストラヴィンスキーの 『結婚』のポケット・スコア。音楽好きのドイツ将校はこれらの楽譜の所持を認め、これがメシアンにとって飢えや寒さで苦しい時の慰めになった、更にドイツ将校は作曲の為の鉛筆や消ゴムや五線譜をメシアンに特別に与えた。
メシアンはこの収容所で出会った音楽家に励まされ、厳しい環境の中『世の終りのための四重奏曲』を完成させる。そして、この曲は真冬の1941年1月15日に収容所のバラックホールで初演される。楽器は古びて鍵盤のずりおちそうなアップライトのピアノ、3本の弦しかないチェロなどで、4人の音楽家たちは破れてぼろぼろの兵服をまとい、雪中作業のための大きな木靴を履いていた。
しかし、聴衆は5000人、ドイツ軍の将校に加え捕虜など農民・知識人・職人・牧師・ 医者などさまざまな階層の人が集った。メシアンは演奏前に楽曲解説をする「この曲は囚われの身の時が終ることを示しているのではなく、過去と未来の観念の終り、すなわち永遠の開始を描いた作品」と。そして、自分の作品があのように注意深くそして理解力をもって聴かれたことはなかった、とメシアンは回想する。

このライナーにある『世の終わりのための四重奏』の作曲初演の物語を読めば誰もが心打たれるだろう。そして、この曲のうつろう音に、永遠の時を感じることに魅了されない者はいないだろう。

現在の捕虜収容所 Stalag VIII-A 跡地

● 古書店で出会った『時の終わりへ メシアンカルテットの物語』

ただ、あとからこの物語は事実とは異なるという話をちらほら耳にすることになる。どこが真実ではないのだろうか、と気になっていたところ、こちらの本に偶然出会った。そして、3本の弦しかないチェロの話は事実ではなく弦はすべてあったという。また、弦の足りないチェロでは『世の終りのための四重奏曲』は弾けないことを、メシアンは知っていたにも関わらず吹聴していた、とある。

時の終わりへ メシアンカルテットの物語 レベッカ リシン著

ただ、このことはがっかりする話ではない。この本を読んでいると、この曲の背景にはもっと過酷な物語と心を動かされる事実があることがわかる。まずパスキエがメシアンと出会ったのは収容所ではなくフランス軍従軍のさいの同じ部隊に配属されたとのこと。その際の描写が素敵だ。
二人で夜明け前に警備に出ると、夜明けとともに鳥たちが指揮者がいるかのようにピッチを合わせて、さえずり出す。そのさえずりを警備当番の都度待つ二人。これが『世の終りのための四重奏曲』の3楽章にインスピレーションを与えたらしい。

そして、先の音楽好きのドイツ将校はこれらの楽譜の所持を認めたという話も詳細があるようだ。実際はドイツ兵の一人が楽譜の入ったメシアンの鞄を取り上げにかかったらしい。そこで、あの温厚なメシアンが凄まじい形相でかばんを守り、ドイツ兵が気圧されて断念したという話が書かれている。

捕虜収容所 Stalag VIII-A の図面@ゲルリッツ歴史博物館

● ゲルリッツの収容所の様子とメシアン

開戦当時、ドイツ軍は破竹の勢いで勝利していった為、捕虜が急増し収容所の食糧不足は深刻だったらしい。たった3つのジャガイモを盗んだかどで処刑された捕虜もいると言う。しかし、徐々に環境も改善され図書館や多国籍オーケストラやジャズバンドも結成され、収容所内向けの月刊新聞までもが発行された。

当時の収容所内の合唱の様子@ゲルリッツ歴史博物館

ゲルリッツの第8A捕虜収容所のこんな文化的な状況が『世の終りのための四重奏曲』が生まれる背景にあった。しかし、ポーランド人、ロシア人捕虜にはそういった施設はなく、あるのは西ヨーロッパ人向けのエリアだけだったようだ。そして、ドイツ人は音楽と音楽家に敬意をもっており、音楽家たちは石炭や食料を多めにもらえたらしい。そのおこぼれに預かろうと音楽家バラックに入り浸っていたのが当時弁護士だったフランソワ・ミッテランだったとある。

当時の収容所内オーケストラの様子@ゲルリッツ歴史博物館

メシアンは音楽家の中でも更に優遇される。早朝の警備担当にしてもらい穏やかな気持で作曲に専念させてもらっていた。その最中にメシアンはオーロラを見たと語っている。また通常の雑役も免除され、作曲する為の環境をドイツ軍は整えてくれたようだ。
1940年にドイツとフランスとの間で休戦協定が結ばれると、収容所の建物のひとつが劇場になる。ここでは、映画に加え、演劇からオペレッタまでが上演された。クラシック音楽は前座のようにこれらの演目の最初に演奏されたが、クラシックを聴いたこともないような捕虜たちでありながらも、客席はいつも満席だったと言う。

当時の演劇上演時の様子@ゲルリッツ歴史博物館

● 『世の終りのための四重奏曲』の初演

ついにメシアンは作曲を終え、『世の終りのための四重奏曲』の初演がおこなわることになる。演奏会は通常の土曜日ではなく、初演ということを考慮し水曜日に設定され、いつもは演劇の前座だった クラシック音楽が、この日は異例にも単独でおこなわれた。しかも収容所長の指示によりプログラムまで創られる特例づくめであった。
先にあった初演は5000人の捕虜の前で、という事実はなかったらしい。プログラムを配布し、本国に送還処置予定の別棟にいた捕虜までコンサート鑑賞を許され、たいした人気で満席だったのは確かなようだ。しかし、5000人も収容できる会場はなかったとの証言が複数ある。パスキエによると聴衆にいたドイツ将校を入れても300-350名ほどだったらしい。

では、なぜメシアンは先の3本弦のチェロの話と同様に、事実を偽ってまで吹聴するのだろう。この作品を演奏するのに音楽家たちがどれほどその困難に直面したかをメシアンは伝えたかったという説や作品への愛着、そして戦後のこの作品への無視から誇張したのではないか、という説を本では紹介している。

実際の初演の演奏は、音楽家たちの絶え間ない努力が実を結び、聴衆に深い影響を与えた。多くの人が証言しているように、聴衆は圧倒され、終演後の会場は静まりかえったと言う。『世の終りのための四重奏曲』は現代音楽の作品で、クラシック音楽など普段聴きもしない人にとっては、音楽と言えないような曲だ。しかし、この初演では、音楽は力強く、収容所の雰囲気を変容させた。日常の退屈さ悲惨さを崇高なものへ変え、宗教的な主題が、場所/時代/国籍/社会階級を超えた奇跡として聴衆の胸に迫った。

メシアンの求めに応じてプログラムの裏に、演奏者たちの走り書きによる賛辞がよせられたものが残っている。そこにパスキエはこうしたためている。

ゲルリッツ収容所 第27B棟、我々の劇場
外は夜、雪、惨めさ、ここに奇跡が
『時の終りのための四重奏曲』は私たちをすばらしい楽園に誘い、この忌むべき世界からすくってくれるのです

当時のバラックの写真@Stalag VIII-A 跡地
捕虜収容所 Stalag VIII-A 現在のバラック跡地

● 『世の終りのための四重奏曲』の後日談

この本の後半では、演奏者や収容所のドイツ側の人物など各々の後日談を詳細に描いている。
メシアンと共に初演のしたメンバー3人。エチエンヌ・パスキエは収容所から解放され、パスキエ三重奏団を結成し活躍し続けている。アンリ・アコカは収容所からの脱走に成功し、クラリネット奏者としてのキャリアを築いていくも父をアウシュビッツで亡くしたことを戦後知ることになる。ジャン・ブレールは収容所生活での演奏ブランクからヴァイオリンを辞め俳優になる。そして、彼は捕虜の際の辛い経験に一生悩まされ続けたと言う。

メシアンは「第8捕虜収容所元捕虜親睦会」に多額の寄付をし、支援をし続けた。しかし、亡くなる直前に同会主催の1991年ゲルリッツの聖ペテロ・パウロ教会でおこなわれた『世の終りのための四重奏曲』初演50周年記念演奏会には足を運ぶことができなかった。

ゲルリッツの聖ペテロ・パウロ教会
ゲルリッツの聖ペテロ・パウロ教会 のオルガン

● メシアンを巡る旅

メシアンが最初に色彩に感情を動かされたのは、10歳の時に見たサント・シャペルのステンドグラス窓だった。『世の終りのための四重奏曲』の美しく眩い音の色彩もその影響があろう。サント・シャペルはパリ、シテ島にある世界遺産の聖堂で、とにもかくにもステンドグラスが美しい。パリ近郊のシャルトルの大聖堂と並んでステンドグラスの美しさと規模では類を見ない。

サント・シャペルのステンドグラス @ Sainte chapelle, Paris

そして、メシアンは戦前から捕虜時代を除き亡くなるまでずっと、パリのサントトリニテ教会(Église de la Sainte-Trinité de Paris)のオルガニストを勤めている。

サントトリニテ教会のオルガン @Église de la Sainte-Trinité de Paris

教会自体はさほど古い建物ではなく、見るべきところは少ないが、ベルリオーズの葬儀も行われたとあるから感慨深い場所である。外観はとても立派で、メシアンが弾いたオルガンは今も健在だ。メシアンを偲ぶ場所としては最適に想う。

サントトリニテ教会外観 @Église de la Sainte-Trinité de Paris

ポーランド ズゴジェレにあるメシアンが収容されていた捕虜収容所 Stalag VIII-A の跡地はいつでも見学することができる。跡地入口には記念碑があり、その奥にはドイツとポーランドの共同プロジェクトで2014年に建てられたヨーロッパ文化センターがある。

Stalag VIII-A 跡地の碑@Stalag VIII-A 跡地
碑文@Stalag VIII-A 跡地
ヨーロッパ文化センター@Stalag VIII-A 跡地

この建物周辺の雑木林一帯が収容所跡で散策路となっている。町から離れていることもあって、訪れる人もおらず、散策路は落ち葉で埋もれ、説明の看板なども酷く色あせていた。その散策路を順にたどると教会跡、図書室跡、キッチン跡などがある。訪れた際の欧州はちょうど冬の入口、ここで収容された人は寒さと飢えに苦しんだと書籍にはあったが、この荒涼たる景色を見ると想像にかたくない。

アプローチしてきた道の左手側の雑木林一帯が収容所跡地@Stalag VIII-A 跡地
収容所跡地の散策路には街灯がある、
訪れる人も少なく道は落ち葉で埋もれている@Stalag VIII-A 跡地
要所要所には看板による解説がある@Stalag VIII-A 跡地

また、収容所跡地から離れた奥地には捕虜収容所で亡くなったソ連兵士の墓があった。収容所ではソ連兵など東ヨーロッパの兵士は差別されており、英仏の捕虜とは別の棟に収容されていた。コンサートはおろか、こういった文化的な施設は全く利用できなかったし、食事ですら差別されていたらしい。その為、収容所内で多くの死者が発生している。

ソ連兵の墓

ドイツ側のゲルリッツにはゲルリッツ歴史博物館(historic museum of Görlitz / Kulturhistorisches Museum Görlitz/Museumsverwaltung)。があり、ここにも 捕虜収容所 Stalag VIII-A の展示資料がある。収容所跡地の説明プレート類はかなり劣化していたので、この博物館に設置された画像端末などの資料は Stalag VIII-A の理解の助けになる。

ゲルリッツ歴史博物館
捕虜収容所 Stalag VIII-A のブース@ゲルリッツ歴史博物館
捕虜収容所 Stalag VIII-Aの画面説明@ゲルリッツ歴史博物館

とっつきにくい現代曲が多い中で、 メシアンは最初に親しみを覚えた作曲家。響きも色彩も拡がりがあって、音楽の可能性を教えてもらった。それが今も続いている。

<詳細情報>
・ズゴジェレツ(Zgorzelec)Stalag VIII-A
ー ゲルリッツの第8A捕虜収容所跡 ー
Koźlice 1, 59-900 Zgorzelec

・ゲルリッツ歴史博物館(historic museum of Görlitz / Kulturhistorisches Museum Görlitz/Museumsverwaltung)
Neißstraße 29, 02826 Görlitz

・ 聖ペテロ・パウロ教会(Sts. Peter and Paul Church Pfarrkirche St. Peter und Paul )
Bei der Peterskirche 9, 02826 Görlitz

・サント・シャペル (Sainte chapelle)
8 Boulevard du Palais, 75001 Paris

・サントトリニテ教会(Eglise de la Sainte Trinité)
Place d’Estienne d’Orves, 75009 Paris,

・チェコの演奏会
Schönberg Messiaen
Monday, September 17, 8.00 pm
Rudolfinum, Dvorák Hall
Programme
Arnold Schönberg: Transfigured Night, Op. 4
Olivier Messiaen: Quartet for the End of Time

Sharon Kam clarinet
Josef Špaček violin
Roman Patočka violin
Pavel Nikl viola
Karel Untermüller viola
Michal Kaňka violoncello
Petr Nouzovský violoncello
Matan Porat piano

・メシアン『世の終わりのための四重奏』(メシアンの芸術)のライナー抜粋
1941年1月15日、ポーランドの国境近くのシレジア地方のゲルリッツの捕虜収容所で、5000人の捕虜という聴衆を前に して初演された。第2次世界大戦の開始とともに一兵卆としてフランス軍に召集されたメシアンは、1940年6月つまりドイツ軍の電撃戦にやられ潰走中に捕まる。メシアンは32才。

収容所に到着するやいなや捕虜のすべての所持品がとりあげられるが、トリニテ教会のオルガニスト兼新進作曲家の肩の雑のうに大切に収められていたのは、飢えや寒さで苦しい時の慰めになるポケット・スコア。検閲にあたった音楽好きのドイツの将校は、バッハの《ブランデンブルク協奏曲》、ベルクの《抒情組曲》、ストラヴィンスキーの 《結婚》などのつまった雑のうをメシアンに返却し、さらに後には、鉛筆や消ゴムや五線譜を特別に与えたという。

メシアンはこの収容所で、有名なチェリストのエチェンヌ・パスキエほかの3人の音楽家に出会った。 ヴァイオリン奏者のブーレールとクラリネット奏者のアコカは各々自分の楽器をもっており、またパスキエはある時3本の弦しかないチェロを贈物として手にした。メシアンはこの3人の音楽家のために小さなトリオを作曲し、この後に《世の終りのための 四重奏曲》の第4楽章の(間奏曲)になる小トリオ が、まず収容所の洗面所で3人によって演奏された。

この3人の音楽家の演奏に勇気づけられたメシアンは、1940年の冬、朝10時にしか陽ののぽらない厳寒 のなかで作曲の筆を進め、全8楽章の《世の終りの ための四重奏曲》を完成した。

1941年1月15日、収容所のバラックの建物のホールで、古びて鍵盤のずりおちそうなアップライトのピアノ が持ちこまれる。破れてぼろぼろの兵服をまとい、雪中作業のための大きな木靴をはいた四人の音楽家。 そしてドイツ軍の将校・農民・知識人・職人・牧師・ 医者などさまざまな階層の5000人の聴衆。メシアン自身の回想によれば、(私は聴衆にまずこの四重奏曲 が、時の終りのために書かれた作品であることを説明した。囚われの身の時の終りではなく、過去と未来の観念の終り、すなわち永遠の開始のための作品だ、と。……私の作品が、あのように注意深くそして理解力をもって聴かれたことはなかった。

強靭 な宗教的・音楽的精神の持ち主であるメシアンは、 ナチスの苛酷な収容所で、(世の終り)の悲嘆の音楽を書いたのではなく、新しい哲学的時間と音楽的 時間に基づく作品を自由に創造していたと考えてよ いだろう。メシアン自身こう回想している。(私が この四重奏曲を作曲したのは、雪と戦争と囚人と自分自身を克服するためである。私がこの作曲から得た最大の利益は、30万人の捕虜のなかでおそらく私1人が捕虜でなかったということだ)と。

ポーランド / ズゴジェレツ ドイツ / ゲルリッツ フランス / パリ

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