グダニスク(Gdańsk)はドイツ領時代はダンツィヒ(Danzig)と呼ばれ、歴史上、幾度もポーランド領となったり、ドイツ領となったりを繰り返している。
近年でも第1次大戦でドイツが敗退した際に、グダニスク(ダンツィヒ)は国際連盟の管理下となったが、長らくドイツ文化圏であり、ドイツ系住民も多かったことから、ヒトラーはこの地の併合を要求し、結果的に第二次大戦の火ぶたもこの地からきられることになった。
グダニスクにある岬 ヴェステルプラッテ(Westerplatte)では、宣戦布告もなくナチスの艦砲射撃を含めた急襲を受けたが、それと同時刻にポーランドの郵便局(Polish Post Office Poczta Polska)でも、激しい攻防戦がおこなわれ、これらの様子を同博物館で知ることができる。
また、開館して間もない 第二次世界大戦博物館(Muzeum II Wojny Światowej w Gdańsku)は、戦争犯罪に焦点を当てており、戦争博物館によくある軍装品や兵器の展示だけによらない、中身の濃い戦争の内実を知る博物館となっている。
そして、戦後のグダニスクもまた、新たな戦いの中心地となる。共産主義政権による暴力的な統制に抗うポーランド民主化の最中、グダニスクの造船所でワレサ(ヴァウェンサ)が自主管理労組「連帯」を立ち上げ民主化を牽引した。この当時の状況を広大なスペースも用いて、解説している博物館 ヨーロッパ連帯センター(Europejskie Centrum Solidarności)も見どころ盛り沢山の博物館である。
● 第二次世界大戦博物館
・ウクライナ飢饉-ホロドモール-と臼石
・レニ・リーフェンシュタール
(Leni Riefenstahl)
・戦時中の差別
(優生思想、身体障害者、ユダヤ人)
・ポーランド人に対する弾圧
・捕虜に対する罪
・飢餓
・強制収容所
・ポグロム
● ポーランド郵便局博物館
● ヨーロッパ連帯センター
● 第二次世界大戦博物館(Muzeum II Wojny Światowej w Gdańsku)
この博物館には、運良く火曜日の無料の日の訪問となった。その割には来館者は多くない。おかげでじっくり見て回ることができる。普通に館内をまわっても2時間を要す大博物館で、興味深いのは大戦の全体像を、圧政を切り口に網羅的に扱っている所である。
通常、こういった博物館は軍装品や兵器に偏っていたり、ユダヤ人問題に限られていたりするが、若干ながら太平洋戦争や日本軍の展示もあり、第二次世界大戦を幅広く扱っている。一般市民を巻き込む無差別爆撃についても重慶やゲルニカから始まるが、広島含めて連合軍の犯罪行為まで描かれている。
捕虜の扱いを網羅的に扱った展示も初めて見た。捕虜の扱いにおいて、数々の不法行為や意図的にドイツ軍がソ連兵を餓死させた話などの戦争犯罪も多く紹介している。
ユダヤ人の問題についても多く取り上げられているが、自国のポグロムについての記載は少なめであった。ポーランドも反ユダヤの感情が大きかった国だが、その辺は如何なのだろうかという率直な疑問は残る。
この博物館の展示の最後の最後にポーランドはナチスとソ連の侵略と戦後ソ連の圧政に打ち勝った的な映像でしめくくられる。この辺りを含めて、自国民には少々身贔屓な気もした。
しかし、その身贔屓なところが気にならぬほどの圧倒的な展示数とその内容であり、戦争とその余波で、戦場外の恐ろしい実態が浮き彫りになる博物館であった。特筆すべき展示をいくつもあげることができる。
・ウクライナ飢饉-ホロドモール-と臼石
飢餓についても各セクションに豊富な展示があり、この博物館でもひとつのトピックになっている。展示の最初のブースに「ウクライナのハンドミル」とのタイトルで、粉ひきの臼石が展示されていた。
何のことだろうと解説を読むと、ソビエトがウクライナ農民からハンドミルを取り上げたという話であった。
ウクライナの飢餓を意図的に引き起こしたソ連の政策-ホロドモール-は有名だが、農作物を収奪する為に農民自らが食べられないようにハンドミルまで破壊してまわったという恐ろしい話までは聞いたことがなかった。
この時ソビエトはウクライナ農民から動物の飼料や種子となる穀物まで没収し、他の畑から麦穂を5本摘んだだけで死刑もしくは強制労働収容所で10年の刑が言い渡され、人々を餓死に追い込んでいった。
・レニ・リーフェンシュタール(Leni Riefenstahl)
レニ・リーフェンシュタールについては「ヒトラーのお気に入り」との冠がついて、とりわけ詳細な解説がなされている。彼女の作品についても同様に詳しく解説しており、映画『オリンピア』についてはトラッキングショット、スローモーション、スマッシュカット、コントラストなどの革新的な技術をつかって新しい美学を導入した人物として、映画史に名を残したとまで記されていた。
一方、ナチズムを広めた責任は決して認めなかったとあるが、それを糾弾するかのように事実が次々と明示される。
彼女は1939年9月に撮影クルーを連れてポーランドに訪れ国防軍の制服に身を包みドイツ軍の活動を記録したとある。初めて知ったことだが、9月12日にコンスキエ(Końskie)という町でドイツ軍の兵士がユダヤ人住民19人を射殺し多くの負傷者を出した虐殺事件があった。この時、彼女はこの現場にいたという。そして、その翌月10月には、ワルシャワで勝利のパレードの最中のヒトラーをリーフェンシュタールが撮影する。
このようなナチス協力者であったにも関わらず、単なるシンパであるというだけで、その後映画撮影こそできなくなったが、断罪はなされなかったと説明があった。そして、彼女の新たな情熱は写真に移り、何年もアフリカを旅し多くの写真集を制作したと結ばれている。
・戦時中の差別(優生思想、身体障害者、ユダヤ人)
福祉国家としてのナチスドイツの側面も敢えて紹介されている。ナチスはドイツ国民に対して、その繁栄を約束した。子供の多い家庭やシングルマザーは支援を受けた。彼らは組織的で大規模なサポート、安価で快適な休日として文化的・スポーツ的なイベントの恩恵を受けたとある。更には「人民の車」(フォルクスワーゲン)すなわち自家用車の所有を推し進め、貧しい人々ケアし、国民共同体を強化する為に、こういったプログラムを多用したとある。
また、ナチスの美の規範によると、体格の良い青い目のブロンドは理想的な人間のタイプとされた。女性の場合は運動能力の高い体型や大きなお尻と胸など、生殖能力を保証するとされる特徴をも評価していた。女性の最も重要な役割は子供を産むことと定義されていたからである。
人種差別的な出版物(1928-1938)によって、ドイツ人が人種の頂点であるという信念の背後にある人種差別は「Rassenkunde desutschen Volkes(ドイツ人の人種的起源)」という本や月刊誌「Volk und Rasse((国家と人種)」などの出版物を通じて広く宣伝された。
障害者差別については、ベルリンの公衆衛生委員会(Reichsausschuß für den Volksgesundheitsdienst)が主催した展覧会「Genetically ill」のためにゲオルク・パールが撮影した一連の写真が展示されている。これらの障害者の写真のキャプションには、彼らが国家にどのくらい負担をかけているかを記述してあり、障害者を危険な存在として描いている。このような政策のおかげで世間では障害者を受け入れる余地がなかった。こうして弱者の計画的な駆除は戦争が始まる少し前から始まっていた。
反ユダヤ的プロパガンダの極めて卑劣な例として反ユダヤ的な新聞社である「Der Stürmer」が6万部の印刷部数で出版した「Der Giftpilz(毒キノコ)」と題された絵本がある。この絵本ではユダヤ人が狡猾で、貪欲で、残酷で、淫らな対象として描かれている。こうして差別的なステレオタイプのユダヤ人表現が幼い子供たちに植え付けられていった。この本の内側のカバーには持ち主である少女の名前が書かれており「1938年におばあちゃんから受け取った」と記載されている。
・ポーランド人に対する弾圧
グダニスクのクルコワ通り(Kurkowa Street / Schiesstange)に刑務所があった。戦争初期の1939年9月に約4500人のポーランド人が捕らえられ、そのうち800人がからなるポーランド人の労働者や子供が収容されていた。収容者の多くは尋問中の拷問などで殺されたり、絞首刑やギロチンで処刑されたりしたと言う。
1939年11月 グダニスク北西でピアシニツァの虐殺(Zbrodnia w Piaśnicy)が起きる。この時も、このクルコワ通りの刑務所からポーランド人の囚人たちが処刑される為にピアシニツァの森(Piaśnica Woods)へと連れ出された。
・捕虜に対する罪
ここでは数多の事例がキャプションや写真などから説明されている。1939年のチェピエルフ (Ciepielów)の戦争犯罪が紹介される。軍服を着たポーランド人捕虜を根拠なくパルチザンと呼び、ドイツ軍はいきなり上着を脱がせ300人もの捕虜を銃殺した。
また、ソ連兵の捕虜に対するナチスドイツの扱いは熾烈を極めた。ジュネーブ条約などの捕虜の保護の規定は適用されず、不当な処刑などによりスラブ人の根絶を目的とした、あらゆる措置がとられソ連兵捕虜が亡くなっていった。
食料も水もなく、重労働を強いられた捕虜たちは、飢えと病気ですぐに衰退していった。こういった「飢餓計画」は数ヶ月で約300万人のソ連の捕虜を殺したとある。
・飢餓
飢餓は戦争と占領の産物であった。戦時中のほとんどの国では戦争が進むにつれて食事の栄養価が大幅に低下した。5年間の戦闘では、食料の配達妨害、占領軍による盗難、倉庫、道路、鉄道の破壊などが原因で多くの地域で飢餓が蔓延していた。征服された国々では、これらの政策が意図的かつ前例のない規模で適用された。その主な犠牲者はユダヤ人であり、ゲットーや強制収容所では食糧を与えられなかった。
・強制収容所
「頭の虱は死を意味する」と書かれたシニカルなポスターが展示されている。シラミが病気を蔓延させ、それを警告する内容で、描いたのはポーランド人のグラフィックデザイナー。彼はアウシュビッツに収容され死を待つ日々であった。そのような状況で清潔を奨励されるという、なんとも歪んだ話であり、グロテスクなポスターである。
そして、非人道的な医療行為についても多くの解説がある。収容所では多くの人体実験が行なわれ、新しい治療やワクチンのテスト、似非科学的な野蛮な実験もあったという。ラーフェンスブリュック強制収容所(Konzentrationslager Ravensbrück)でのこうした人体実験の対象者は若いポーランド人女性で、この犠牲者たちは「うさぎ」と呼ばれていた。
あえて傷をつくりサルファ剤の治療実験などをおこない、多くの者が亡くなるか、障害を持つ身になった。この状況で危険をおかしてカメラで密かに撮影された写真が残っている。また、暗号化され目に見えないように尿で書かれた手紙で亡命ポーランド政府に惨状を知らせる手紙もあった。
・ポグロム
ポグロムとはユダヤ人迫害の総称で、元はロシア語で「暴力的に破壊する」という意味である。このポグロムは1939年から1941年にかけて、かつてソビエト連邦が占領していた地域で多発した。なぜなら、ナチスドイツがそれらの地域に攻め込みソ連から領土を奪った後、ユダヤ人を攻撃する為にウクライナやバルト三国の急進的な民族主義運動をプロパガンダで利用したからである。一部のユダヤ人がソビエトに協力していたことを引き合いにして、ユダヤ人全体を共産主義を支持し協力していると批判弾圧を煽り、旧ソ連であった地域ではポグロムが相次いで起こった。
その為、ドイツ人は自らの手を汚さずにユダヤ人を意図的に弾圧をする術を得た。そして、憎悪を煽り、残虐な行為に導いた。このような反ユダヤ主義はポグロムだけでなく、ユダヤ人の財産を盗む口実にもなり、各々の地で何世代にもわたって隣同士で暮らしていた人々に対して分断と破壊をもたらした。
ここではいくつかの代表的なポグロムが解説されている。
-コヴノのポグロム(Pogrom in Kovno)
1941年6月にドイツ軍がリトアニアのコヴノを占領した後、数日間でリトアニアの民族主義者たちが4,000人近くのユダヤ人を殺害した。ドイツ軍はリトアニアの反共産主義や反ユダヤ主義的陣営を利用した。
-リヴォフ/リヴィウのポグロム(pogrom in Lvov)
1941年6月末にドイツ軍がリヴォフを占領した際、ソ連軍の手による犠牲者の遺体が刑務所に山積みになっているのを発見した。これをドイツ人は利用し、ウクライナ人の憎しみと復讐心を煽り、ソ連の協力者としてユダヤ人弾圧をけしかけ約4,000人が殺害された。
-ヤシのポグロム(Pogrom in laşi)
歴史上最も血なまぐさいポグロムの一つが1941年6月末にヤシで起こった。その口実はルーマニアのユダヤ人がソ連軍やソビエト当局と共謀していたというものであった。ルーマニア兵士、警察官、極右の鉄衛団、そして町の人々が13,000人以上のユダヤ人を殺害した。
-イェドバブネのポグロム(Pogrom in Jedwabne)
1941年7月10日、イェドバブネでドイツ人に説得されたポーランド人が広場でユダヤ人を惨殺された。ユダヤ人墓地の近くの納屋では生きたまま焼かれた。数百人のユダヤ人が殺害され、財産は盗まれた。
-キェルツェ キエルツェのポグロム(Pogrom in Kielce)
詳細については、以下のブログ記事「キェルツェ キエルツェ(Kielce)観光ガイド / ポーランド地方都市の市場の魅力とキェルツェ ポグロムの史跡 ヤン・カルスキ協会」をご参照ください。
第二次世界大戦博物館(Muzeum II Wojny Światowej)🇵🇱
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) November 20, 2019
普通に館内をまわって2時間を要す大博物館。興味深いのは大戦の全体像を圧政を切り口に網羅的に扱っている点。プロパガンダ、兵器紹介、無差別爆撃、捕虜の扱い、ポグロム、飢餓等。少々自国に身贔屓な表記や展示もあるが、とても有益な博物館。 pic.twitter.com/QnDXrlJ1JS
● ポーランド郵便局博物館(Polish Post Office / Poczta Polska)
他の博物館と同じくこちらも開館時間が変則的である、月曜日はほとんどの博物館が閉館だか火曜日も13時までしか開いていない。そこで朝1番に向かうことにした。ちなみにこちらは現在も通常営業している郵便局の中にある博物館でもある。そして、火曜日は入館料無料であった。
ポーランド郵便局はヴェステルプラッテ同様に第二次世界大戦開戦時の主戦場となった史跡である。博物館の規模は小さいが郵便局の攻防戦の様子や郵便局員の処刑にいたるまでの資料の数々が生々しく展示されており、解説も詳しい。
当時のグダニスク(ダンツィヒ)は、どの国にも所属しない自由都市であった。但し、この郵便局は例外でポーランド資産の建物で治外法権となっていた。つまり建物はポーランド領土であり、ポーランド本国へ直通の電話線がある重要施設かつ戦略上の重要拠点でもある。
ヴェルサイユ条約の第104条と1920年のパリ条約に基づいてポーランドはグダニスク港周辺の郵便・電信事業を維持する権利を獲得した。そして1920年1月に郵便電信局がグダニスクに設立された。ベルサイユ条約 第104条には以下の記述がある。
○ベルサイユ条約 第104条
主な連合国及び連合国は、ポーランド政府と自由都市ダンツィヒとの間で、次の目的をもって、自由都市の設立と同時に発効する条約を交渉することを約束する。
(1) ダンツィヒ自由都市をポーランドの税関国境内に含めること、及び港に自由区域を設けること。
(2) ポーランドの輸出入に必要な、自由都市の領土内の全ての水路、埠頭、水 槽、埠頭、その他の施設を、ポーランドに対して制限なく自由に利用できるようにすること。
(3) ポーランドに対し、自由都市内の道路鉄道を除く、自由都市内のビシュトラ川と鉄道全般の管 理・管理、ポーランドとダンツィヒ港との間の郵便・電信・電話通信を保証すること。
(4) ポーランドに対し、本条に記載された水路、埠頭、水域、岸壁、鉄道その他の工事及び通信手段を開発し、改良する権利を確保すること、並びにこれらの目的のために必要となる土地その他の財産を適切な手続により賃貸し、又は購入する権利を確保すること。
(5) ダンツィヒ自由都市内において、ポーランド市民およびポーランド出身者や言論人の不利益となる差別を禁止すること。
(6) ポーランド政府がダンツィヒ自由都市の対外関係の運営及び在外時の市民の外交保護を引き受けることを規定すること。
ポーランド郵便局が戦略拠点だったため、戦争が予想されドイツとの緊張関係に入ると、郵便局の職員は局の防備を固めた。職員の一部は保安部隊でもあったが、武装は貧弱で拳銃と3丁の軽機関銃しかなかった。
ポーランド郵便局での激戦が繰り広げられた1939年9月1日。57人のスタッフが在籍し、立てこもったポーランド郵便局員は幾度もドイツ軍を跳ね返した。
ドイツ軍の攻撃は隣接する事務所と正面玄関の2方向からおこなわれたが、幾度もドイツ軍は敗退を迫られる。そして105mm榴弾砲と爆薬を用いて、開戦10時間後に突入、最後に職員たちは地下室に立て籠もるも、ガソリンを注ぎ込まれ3時間後に陥落。ポーランド側は当初6時間程度の防御を想定していたが、郵便局員たちは、ほぼ1日を死守したことになる。
最後の防衛で酷いやけどを負った者を含め、郵便局職員たちの末路は更に悲惨だ。市民である郵便局員はパルチザンとしてドイツの法定で死刑宣告がなされ、グダニスク・ザスパ(Gdańsk-Zaspa)の軍事射撃場で処刑される。
この時の埋葬場所が判明するのは、なんと1991年。52年以上不明だったのだが、ヨハネ・パウロ2世通りの地下駐車場工事中に偶然発見された。郵便局の制服の破片などからポーランド郵便局員の遺体であることがわかったと言う。
そして、1998年にはリューベックの裁判所で郵便局員の死刑判決を翻す判決がだされ、彼らの名誉回復がやっとなされた。
郵便局の前には、ポーランド郵便局守備隊の記念碑がある。1979年にポーランド侵攻40周年の際に造られた。像を見ると致命傷を負った将校が勝利の女神ニケに銃を渡し、女神の頭上には平和の象徴である鳩が舞っている。
郵便局の建物の横にはドイツ軍に捕まった局員が並ばされた壁がある。現在、この壁は修復中であったが、少々遠巻きに見ることができた。
● ヨーロッパ連帯センター(European Solidarity Centre / Europejskie Centrum Solidarności)
造船所のそばにはヨーロッパ連帯センターがある。ここは独立自主管理労働組合「連帯」の博物館で、錆びた鉄板に覆われた建物が目をひく。内部は展示物も豊富で、動画データも盛りだくさんの驚くほど立派な博物館施設だ。そして、民主化の一連の流れは、ポーランド近現代史では大きな出来事だっただけに学生を含めて見学者も多い。
まず目に入るのは建物前にあるグダニスク造船所の2番ゲート。その昔、このゲート越しにストライキの参加者と権力側がにらみ合った。
そして門をくぐり、ザラザラした鉄板の壁面を横目に巨大な建物の中に入ると、広いオープンなフロアが迎えてくれる。
中は広く、子供でもイメージできるように鉄工所を模したブースもある。また、当時の権力側がおこなった酷い弾圧を体感できるような警察の防護盾や警察車両など実物大の展示も多い。
一方、パネルや動画による展示も多く、当時のポーランドの情勢や権力側の弾圧などが詳細に説明されている。その中で目をひくのが「21の要求(21 postulatów MKS 21 demands of MKS)」が書かれた合板である。
これは1980年8月に作成され、正門であるグダニスク造船所の2番ゲートに掲げられた。最初の要求1番目の内容は共産党や企業から独立した自由労働組合の承認であり、続いて憲法によって保証された権利と自由が守られることや政治犯の解放、そして共産党の特権の廃止などを要求した。
この21の要求が承認され、独立自主管理労働組合「連帯」の活用が拡がると、今度は1981年から政府は戒厳令を発布し、市民を弾圧し始める。展示には「戒厳令の導入に対する世界の反応」という解説があり、これを読んでうろ覚えだった当時のことを少し思い出した。
ポーランドに戒厳令が導入されたことで、多くの国が人道支援と募金活動を開始する。そして、医薬品、衣類、食品、衛生用品、医療機器などがポーランドに各国から次々に送られた。
教会もこれらの物資の分配に積極的に関与した。こういった合法的に送られた援助に加えて、印刷機器や出版物もポーランドに密輸された。
そして世界中の労働組合がポーランドへの支援に関わり、各国で支援のデモがおこなわれるようになる。また、ペルー、オーストラリア、インド、日本などの遠く離れた国からも支援が寄せられた。
ポーランド / グダニスク
<詳細情報>
・第二次世界大戦博物館(Muzeum II Wojny Światowej w Gdańsku)
Plac, Władysława Bartoszewskiego 1, 80-862 Gdańsk
・郵便局(Polish Post Office Poczta Polska)
plac Obrońców Poczty Polskiej 1/2, 80-800 Gdańsk
・ヨーロッパ連帯センター(European Solidarity Centre / Europejskie Centrum Solidarności)
pI. Solidarności 1, 80-863 Gdańsk
○ グダニスク グダンスク 地図
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・グダニスク近郊 ガイド 1 グディニャ / バルト海の三連都市 グディニャ、ソポトとギュンター・グラスの小説『蟹の横歩き ヴィルヘルム・グストロフ号事件』 を読む
・グダニスク近郊 ガイド 2 マルボルク / マルボルク城とタンネンベルクの戦い、『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』 山内進 著 を読む