戦後、収容所から開放されたユダヤ人や各国に避難していたユダヤ人が故国ポーランドに帰国するも、待ち受けていたのは悲惨な境遇であった。ポグロム(Pogrom ユダヤ人迫害)の中でも、キェルツェ ポグロムは、戦後のポーランド人の手によるユダヤ人虐殺事件として大きな問題を残している。その事件の詳細を知ることができるヤン・カルスキ協会を訪れた。
また、キエルツェ(Kielce)は大都市ワルシャワとクラクフを結ぶ中継地として産業が発展した。その様子を歴史博物館で学び、広大な屋外マーケットでは、今のポーランド地方都市の様子をうかがいながら、買物を楽しむことができた。
● キエルツェ(Kielce)へ
● キエルツェ歴史博物館(History Museum of Kielce / Muzeum Historii Kielc)
● ヤン・カルスキ協会(The Jan Karski Society / Stowarzyszenie im. Jana Karskiego)
● 屋外マーケット(Targowisko Miejskie)
● キエルツェ(Kielce)へ
ワルシャワからクラクフに向かう途中、中間に位置するキエルツェ(Kielce)という中規模都市に立ち寄ることにした。キエルツェはシフィェンティクシシュ県(Województwo świętokrzyskie)の県都であり、人口20万人ほど。地方都市としては、そこそこの規模の町である。
移動はレンタカー、時折目の前を覆う濃霧の中を走り、ワルシャワから180kmほど南下するとキエルツェに到着した。
● キエルツェ歴史博物館(History Museum of Kielce / Muzeum Historii Kielc)
まずはキエルツェ歴史博物館(History Museum of Kielce / Muzeum Historii Kielc)に向かう。日本では事前情報がなかなかとりにくい町であったので、最初に歴史博物館を訪れると勝手がわかって具合がよい。
朝一番の来訪ということもあって、例によって博物館スタッフが行く先々の展示室の電灯をつけてくれながらの閲覧となる。展示内容は、石器時代から始まる郷土資料館にありきたりな内容だが、丁寧なキャプションとブース構成である。ほのぼのとした昔の写真や展示品も多く、この地の暮らしぶりがよくわかる。
ポーランドのオートバイ SHLはキエルツェで製造されていた。展示されていたのは初代のモデルで、エンジンは英国製の98cc、重量78kg、お値段は768PLNとある。1938年に生産開始され、改良を重ね第二次大戦の開戦1939年まで2000台が製造された。戦後SHLブランドは復活するも、当局がオートバイメーカーの絞り込みを行ない1970年に生産停止になってしまった。
第二次世界大戦のキエルツェは、開戦直後の9月1日に早速ドイツ軍がこの町を爆撃し、9月5日には占領されている。戦中はレジスタンスやパルチザンなどの多くのグループがこの町に展開し、活発に活動をしていた。
ナチスドイツに送り込まれたポーランド総督ハンス・フランク(Hans Michael Frank)がこの地を訪れた時の写真が展示されている。彼はIDO(クラクフで運営された差別的な研究機関、ドイツ東部労働研究所)を主導した人物であり、ポーランド人にとっては目の敵の人物、ヴロツワフの現代美術館で見た特別展の題材とかぶる。
また、キエルツェには以前からユダヤ人が多く住んでおり、戦争開始時には住民の35%にも及ぶ2万5千人ものユダヤ人が生活をしていた。そして占領中の1941年にはユダヤ人ゲットーがつくられ、各地から集められた者も含め2万7千人ものユダヤ人が住んでいた。しかし、過密で悲惨なゲットー生活を強いられた彼等は、早々にトレブリンカの絶滅収容所へ送られてしまう。
戦後もユダヤ人の受難は続く、1946年7月4日のポグロム(ユダヤ人迫害)で42名ものユダヤ人の命がキエルツェで奪われた。戦争が終結してナチスドイツがいなくなった後のポーランドで、ユダヤ人が迫害されたという点でこの事件は強烈であり、ポーランド人にとっても唾棄すべき史実となっている。このキェルツェ ポグロムによって悪しきイメージが後々もこの都市につきまとうことになる。この痛ましいポグロムについて詳細展示はないものの、数枚のキャプションを用いて、このことに触れていた。
● ヤン・カルスキ協会(The Jan Karski Society / Stowarzyszenie im. Jana Karskiego)
キエルツェ ポグロムについては歴史博物館とは別に重要な史跡、資料館がある。それがヤン・カルスキ協会(The Jan Karski Society / Stowarzyszenie im. Jana Karskiego)、キェルツェ ポグロムの資料館であり、事件の中心現場となった建物でもある。
第二次世界大戦終結後の1946年、「ユダヤ人に誘拐されていた」との少年の嘘からユダヤ人の死者42人、重傷者50人にもおよぶ虐殺がここキェルツェで発生した。その虐殺をおこなったのがポーランド人であること、ナチスドイツが敗退した後の戦後であることもあって、このポグロムはポーランド国内で大きなしこりを残している。
少年が地下室に監禁されていたと嘘をついた場所が、このヤン・カルスキ協会の建物である。しかし、この建物に地下室はなく嘘は間もなく発覚した。しかし、住民達はそれでも暴走をやめず、この建物の中でもユダヤ人の虐殺が行われた。
このキエルツェ ポグロムは、教会や警察含めて住民皆が見ぬふりをした為に、詳細がなかなか判明しなかった。当時、ユダヤ人は子供の血を抜く等の妄言もまだ残っていたらしく、憎悪に満ちた環境が事件の露呈を阻んでいたようだ。戦後のポーランドにおいても、如何にユダヤ人差別が根深かったのかが、このことからもわかる。
このヤン・カルスキ協会には、当地でのユダヤ人問題やポグロムの資料が所狭しと展示されており、壁一面に説明書きがある様子は壮絶である。
例えば、キェルツェのユダヤ人史なども興味深い。
1833年 ポーランド王国がユダヤ人がキエルツェに永住することを許可したが、住民の抗議により撤回され、1862年に皇帝が法の前に平等であることを宣言して、やっとユダヤ人が町に定住し貿易や工芸品に従事するようになったとある。このことからも、かなり昔から反ユダヤの思考が強かったことがうかがえる。
そして、1918年にはユダヤ人の自治を求める集会で、反ユダヤの騒乱が起きる。この時は4人のユダヤ人が死亡、約200人が負傷し町中のユダヤ人商店が取り壊された。後年のポグロムの前触れのような出来事である。
しかし、キエルツェにはその後も多くのユダヤ人が住み続けていた。1931年の国勢調査では、キエルツェの住民58,236人のうち、40,784人がポーランド語を母国語とし、16,332人がイディッシュ語、879人がヘブライ語、140人がロシア語、ウクライナ語、ベラルーシ語、52人がドイツ語、49人が他の言語を話すという記録が残っている。イディッシュ語やヘブライ語を話す人がとても多く、実際に町の人口の29.5%をユダヤ人が占めていた。
第二次世界大戦直前の1938年にはキェルツェには2万人のユダヤ人が住んでおり、町の不動産の20.7%を所有し、そのほとんどが通りに面している好立地だったようだ。しかし、キエルツェ歴史博物館で見たように戦争開始直後にナチスドイツによってユダヤ人のゲットーが作られ、大半のユダヤ人がすぐに強制収容所に送られ絶命してしまう。
このゲットーからの悲痛な手紙がヤン・カルスキ協会で紹介されていた。ユダヤ人の少女が家族に宛てたもので、食料や石鹸をせがむ内容とともに、こちらのことは心配しないで、とある。逆にゲットーでの辛い日々が伝わってくる内容であった。結局、この手紙のやりとりをした家族はドイツ軍を避け、命からがらリヴィウに逃れたが、リヴィウがソビエトに支配されると全員シベリアに追放されたと言う。
ゲットーでのドイツ軍の虐待も酷かった。シナゴーグの前で男たちを裸にさせ雪玉を投げつけ、その後全員が銃殺されたという写真が掲示されている。
また、ダビデの星の腕章をつけたユダヤ人女性に少年たちが雪玉を投げつけている写真もある。他の通行人は、これを目の当たりにしながら、なにくわぬ顔をして通り過ぎる姿もここには写っている。
このようなキェルツェにおけるユダヤ人の歴史を経て、戦後この地でポーランド人によるポグロムが起きた。ヤン・カルスキ協会内の別の壁面にはキェルツェ ポグロムの生々しい証言が並ぶ。このポグロムから、命からがら逃出したユダヤ人親子の話、妊婦まで惨殺された様子、そして着ぐるみを剥がすような酷い略奪の状況など。辛い写真やコメントのキャプションには胸に迫るものがある。
このポグロムは、最初に記したように少年の些細な嘘が発端だった。8歳の少年ヘンリク・ブワシチクは親に無断で外出し、行方不明となる。実は親戚の家に泊まっていた彼は2日後に家に戻り父親には「ユダヤ人に誘拐されていた」と嘘をついた。これを真に受けた父親は少年と警察に向かう。途中、少年がこの建物の地下室に監禁されていたと指をさす。この建物が当時ユダヤ人会館であったヤン・カルスキ協会の建物である。その後、少年は警察内でもこの証言を繰り返し、警察は建物を調べに向かうことになった。
警察は誘拐の噂を公表し、更に噂は歪んで広まり「ポーランド人の子供がユダヤ人に殺された」との流布につながる。一方、警察の調査が済むとユダヤ人会館には地下室はなく、少年の嘘が判明する。しかし、広まった噂は留まることなく民衆は建物に侵入し、大虐殺が始まってしまう。そして、女性と子供を含めて42名が殺された。殺害方法は射殺、銃剣に加え、棒や石による撲殺と残忍であり、最後は身ぐるみを剥がされ略奪までおこなわれている。
このポグロムの背景には、戦争が終結し故郷に帰って来た数万人規模のユダヤ人の問題がある。戦中戦後住んでいたポーランド人の中には、元の所有者であるユダヤ人は帰ってこないと思い、土地や家屋を手に入れた者も多くいた。
更に戦争で荒廃しきった街、疲弊しきった国民にとって、戦後のポーランドは政治情勢も社会情勢も混乱を極めていた。人々は困窮し治安もそうとう悪かったであろう。そうした環境から、このようなポグロムが各地で起こったのである。差別意識の延長上には、殺人そのものや略奪自体が目的化していたこともあったようだ。
結局、このような悲惨な環境から、戦後間もないポーランドからはドイツ人だけでなくユダヤ人も結局追い出される形となる。このような歴史的な流れがあって、現在のポーランドはポーランド人(だけ)によって成立しているというのは皮肉な結果だ。
今回、ヤン・カルスキ協会訪れた時、ちょうどイスラエルからの修学旅行の学生集団と行き合った。
ポーランドのポグロムの詳細については、以下のブログ記事「グダニスク(Gdańsk) のおすすめ博物館 2 / 開戦の街、民主化の街 近現代史の舞台となった街グダニスク 第二次世界大戦博物館、ポーランド郵便局、ヨーロッパ連帯センター」をご参照ください。
● 屋外マーケット(Targowisko Miejskie)
キェルツェの中心部を散歩し、歴史博物館付近の広い広場を抜けたところで屋外市場(Targowisko Miejskie)に行き合った。小さな柵を越えると、その向こうに大規模な屋外市場が拡がっており、その規模に驚く。
衣料品などの分量はまるでデパート並。ズラリと店が並び高級そうなコートから普段着までもが揃う。とりわけ帽子や手袋など小物はとても潤沢。今の暮らしぶりや嗜好性がわかるのも市場の魅力だ。手頃なお値段なので手袋をひとつ購入した。
その時のお店のおばちゃんとのやりとりが楽しい。どこの国の方か不明ながら「YES」を「sì」と言ってしまい「おや」という顔をしてケタケタ笑っている。そこから各国の「はい」の言い方を言い合う。10PLN(300円)の手袋ひとつの購入で、こんなやりとりが生じてなんとなく幸せな気分になる。
金物屋では懐かしい柄のホーロー鍋、服屋では大きな姿見をもったおじさんが客と交渉する姿を見かける。市場の雑踏と品物はいつも眺めていて楽しい。
食べ物やももちろんたくさん並んでいる。野菜類は都会よりも安く、良い香りが周囲に漂う。多くの八百屋さんが軒を連ねているので、散々吟味してスープの出汁用の野菜パックと干し杏、プルーン2種を購入した。
プルーンは幾種類もあるが値段が少しずつ異なる。違いを尋ねて見ても、どうにも聞き取れない(笑)。実際、口にしてみたところプルーンを燻していることがわかった。甘い味に燻製のほんのりビター風味があわさって、とても良い味わいだ。ウィスキーのアテなんかにもこれは合う。
最後にクリスマスグッズのお店があり年の瀬も近づいてきたことを感じた。