いつまでも胸に刻まれている思い出深きスペイン映画「ミツバチのささやき」と「エル・スール」。監督したのは寡作の巨匠と呼ばれるビクトル・エリセ(Víctor Aras)、彼は長編映画を3作品しか監督していない。その彼の不朽の名作の2作品のロケ地を巡る。
舞台となったのはスペインのセゴビア(Segovia)近郊の オユエロス(Hoyuelos)村やエル・エスコリアル(El Escorial)。ともに首都マドリードから列車で数時間で行けるが、オユエロス村はあまりに小さく、地元の方もご存じなく訪れるのに難儀した。エル・エスコリアルのロケ地もやっと探し当てた次第、ともにたどり着いた際には嬉しさもひとしおであった。
● スペイン映画の名作「ミツバチのささやき」と「エル・スール」
● 世界遺産を眺めつつ、スペインの片田舎を模索する
● 映画「ミツバチのささやき」のロケ地 オユエロス村 に向かう
● 小さな農村 オユエロス村 に詰め込まれた映画の舞台
● 後日談 ソテラーニャ修道院とオユエロス村のホテル
● 「エル・スール」の舞台、フェリペ二世が築いた街 エル・エスコリアルへ
● スペイン王家のアートが集るエル・エスコリアル宮
● スペイン映画の名作「ミツバチのささやき」と「エル・スール」
この忘れ得ぬ2作の映画「ミツバチのささやき」(1973年)と「エル・スール」(1982年)はスペイン出身の映画監督兼脚本家、ビクトル・エリセ監督によって撮られた。
映画評論家の故・淀川長治さんも「この映画は詩であるから何度とりだして見つめても聞きいっても飽きることはない」と評していた。それくらい2作とも光の加減と画が美しい。何度も見返しているうちに、舞台となった場所への関心が募ったものだった。
そうした関心の高まりを抑えきれず、両作品のロケ地を訪問した。訪問したのは映画が撮られて30年ほど経た後のことだが、美しき映画とそのロケ地はそのまま残っていた。
● 世界遺産を眺めつつ、スペインの片田舎を模索する
「ミツバチのささやき」の舞台となったのは、スペインの片田舎・オユエロス(Hoyuelos)村。旅の前に、ロケ地となった村の名前は調べがついたものの、スペイン語の読み方すらままならない。当時はグーグルマップなど手軽に調べられる手段はなく、小さな村では市販の地図にも載っていないので、探すのも一苦労であった。
日本でだいたいの場所を把握したが、詳細な行き方は不明。現地に行けばなんとかなると考えて、あたりをつけたオユエロス村近くの大きな都市 セゴビア(Segovia)まで行ってみた。
<セゴビアとオユエロス村>
セゴビアでは、ちょうど部屋に空きがあったので、パラドールと言う半官半民のスペインの国民宿舎に泊まることにした。パラドールには古城などを改装した豪華な装いのものも多く、国内はもちろん国外からの人気も高い。宿泊したパラドール デ セゴビア(Parador de Segovia)はそうした古い建物ではなかった。だが、世界遺産であるセゴビアの街を一望できる小高い丘の上にあった。
このパラドールがあまりに風光明媚で食事もとても美味しかったので、延泊をすることにした。あとで知ったのだが、このパラドール内のレストランはけっこう評判がいいとのことであった。そして、部屋のテラスからは世界遺産の旧市街を一望できるすばらしさ。中心部からは少々離れているので街中を散策するには不便だが、それでも宿泊して損はない宿であった。
町中には全長728メートルもある世界遺産の水道橋がある。紀元1世紀、つまり2000年以上も前に建築されたものなのに、保存状態がとてもよい。映画ロケ地の経由地として訪れた町だが風光明媚な土地で恵まれた滞在となった。
● 映画「ミツバチのささやき」のロケ地 オユエロス村 に向かう
話を映画「ミツバチのささやき」に戻して、オユエロス村についてである。地元の方もあまり知らない地名らしく、パラドールのフロントで、いくら話せど「Hoyuelosなんて知らない」の一点張り。依頼していたタクシーもホテルまで迎えに来てしまい、難儀している中、フロントの奥から支配人とおぼしき人が地図を持ってきてくれて、なんとか場所の確認ができた。
しかし、地元の人ですら覚えが怪しい地名の村にたどり着けるのかと心配になる。タクシーの運転手は当然ながらスペイン語しか話せず、40分間無言のドライブだったのは残念だったが、村への道中はすばらしかった。のんびりとしたスペインの田舎の景色、ひなびた村々や羊飼いが羊の群れを駆る姿を眺めながらの車中は、なかなかのものである。ただし、無言の道中なので村の入り口に到着し、やっと看板が見えた時はホッとした。
● 小さな農村 オユエロス村 に詰め込まれた映画の舞台
案の定、訪れてみるとオユエロスは本当に小さな農村だった。タクシーには1時間で戻るからと村の入り口で待ってもらうことにして、ぶらりと街を散策した。散策といっても300メートル四方ほどの村である。10分あまりで一周できてしまうような、バルの一軒すらない村であった。
ただ、映画そのままの姿で家々が残っているのは圧巻であった。主人公の少女アナが暮らす家もすぐにわかった。とてもしっかりした立派な屋敷が目の前にそのままの姿で現れた時は、心の底から来てよかったと感じた。
村の周囲の印象的なシーンとして使われた場所も、そのままの状態だった。アナがフランケンシュタインに出会う小川、映画が上映されていた広場、そして、アナが駆け降りていった丘……。
商店すらない小さな村に、まるでセットのように映画の場面が詰まっていた。今でもこの村の景色は、映画を観るたびに想起される、淡く心地好いスペインの記憶となっている。
●後日談 ソテラーニャ修道院とオユエロス村のホテル
オユエロス村訪問には後日談がある。実はオユエロス村に連れて行ってくださったタクシーが帰りに立ち寄ってくれた村があった。スペイン語が解せない私にどうも「車を降りて見てこい」と言っているようである。頼んでもいない所に停められ、こんな辺鄙なところに置いて行かれたら困るなぁと思いつつも、人の良さそうな運転手があまりにも薦めるので素直に従うことにした。
そこは修道院で、入ってみると見事な回廊がある。あとで調べてみるとサンタ・マリア・ラ・レアル・デ・ニエバ(Santa María la Real de Nieva)という街のソテラーニャ修道院(Monasterio de Nuestra Sra. de la Soterraña)で回廊とファサードが有名な15世紀のゴシック様式修道院であった。
たぶん、なんの変哲もない小さな農村だけの為に遠方まで出かけた私を哀れんでくださって近くの名所に連れて行ってくださったのだろう(笑)
また、最近グーグルマップを見ていて驚いた。あの小さな村の中は、現地の風景がグーグルマップ上で見られるようになっている。そしてなんとアナの家は「Casa Rural Palacio De Hoyuelos」と銘打って、立派なホテルに改装されてしまっていた。
あの映画そのままの風情がなくなってしまったのは寂しいが、今なら昔ほど苦労せずにオユエロス村には訪問できるのではないだろうか。
● 「エル・スール」の舞台、フェリペ二世が築いた街 エル・エスコリアルへ
エリセ監督のもうひとつの名作「エル・スール」。こちらも少女の成長物語でちょっとした霊力ある父親との関係の揺らめきを描いた秀作で、室内の灯りのもとでの撮影が非常に美しい映画である。監督は屋外で照明をほとんど使わないそうだ。そのため屋外撮影は天候と太陽次第。一方、屋内は照明にこだわるとのこと。そこから生まれるショットは格別である。
「エル・スール」の重要なシーンのひとつに、父娘がホテルの窓から差し込む淡い光の中でランチをとる場面がある。映画の中でのホテル「GRAN HOTEL」は、エル・エスコリアルにあるホテル フェリペ二世(Hotel Felipe II)でロケされたことを、なにかの書籍で知った。
しかし、現地を訪ねてみると現在はホテルではなく政府機関の建物に変わっていた。そのため、街のインフォメーションでHotel Felipe IIと言ってもなかなか通じなかった。映画のタイトルを伝えて粘って聞き出した結果、“元Hotel Felipe II”の場所がやっとわかった次第であった。インフォメーションの人ですら、スペインの偉大な監督であるビクトル・エリセの名前を出しても「なんのこと?誰?」という顔をしていたくらいなので、現在ではHotel Felipe IIと言ってもまったく通じないかもしれない。
Hotel Felipe IIは役所に変わってしまったので、あまり中をうろうろすることができず、訪問者を装って軽く内部を歩き回った程度であった。しかしながら、たぶんここで撮影したのだろうと思う場所はいくつか確認できた。
訪問した際は、陽光きらめく真夏の日だったので、若干ひんやりとしたエリセの映画の色調やトーンとは異なる雰囲気であったが、逆にエリセ監督の光の扱い方やすばらしい画を撮るための光のへのこだわりがうかがえる体験となった。
● スペイン王家のアートが集るエル・エスコリアル宮
エル・エスコリアルまで来てエル・エスコリアル修道院に立ち寄らない手はない。この修道院は王宮兼修道院として建てられたが、今は美術館でもある。収蔵品の充実ぶりもすばらしく、スペインを訪れたらプラド美術館に加えて訪問したい美術館だ。ここでティツィアーノやグレコ、ベラスケスなどの絵画を堪能した後、かなりお腹が空いていることに気がついた。エル・エスコリアル修道院は巨大であったし、Hotel Felipe IIまでの道のりもなだらかながら坂を迷いながら登ったので、随分と歩き回ったようだ。
美術館を後にしてぶらぶらエル・エスコリアルの街を歩いていると、中庭が素敵なカジュアルレストランを見つけた。早速、席に通されるとサーブしてくれるお兄さんも愛想良く、まずはこれを飲んだらどうだ、と薦めてくれたのが青リンゴのリキュールだった。
洒落ているのは、小ぶりなブランデーグラスに氷をひとかけら入れて供されたこと。真上の藤棚からの木洩れ日を感じながらの爽快な食前酒。エリセの映画はどこかほの暗い雰囲気でそれもスペインらしくてよいのだが、きらめくような明るさと溢れる開放感に満ちた雰囲気もまた格別なのがスペインである。
首都マドリードから列車で数時間、約2泊のエリセの映画を巡る旅、皆さんもいかがであろう。