自分の旅のテーマの一つは移民である。これまでも各国の移民の歴史に関わる施設を巡ってきた。東京にはJICAが運営する海外移住資料館があり、少し前にこのブログでも取り上げた。そうした経緯もあり、神戸で宿泊したホテルの近くに神戸華僑歴史博物館(Kobe Overseas Chinese History Museum)があることを知り、立ち寄ることにした。そこで幸運にも、JICA海外移住資料館の姉妹施設とも言える神戸市立海外移住と文化の交流センター(Kobe City Center for Overseas Migration and Cultural Interaction)まで紹介していただくことになった。
○ 小さいながらも充実した展示の神戸華僑歴史博物館
○ 華僑の心意気
○ 神戸市立海外移住と文化の交流センター
○ 小さいながらも充実した展示の神戸華僑歴史博物館
この神戸華僑歴史博物館はGoogle Mapで見つけた施設である。ビル内にある小規模な博物館は、ビル所有者がおまけ的に設けた展示施設である場合も多く、正直なところ最初は懐疑的であった。行ってみると肩すかしで、保管品をただ並べたような体でがっかりすることも多い。それでも華僑と言えば地球規模で最大級の移民の方々である。好奇心のほうが上回った。

博物館の入口に立つと受付不在である。少々大きめの声で呼びかけると返事があり、電灯が点いて、奥から人が出てくる。これは良きパターンだ。訪問者が少ない証拠であり、こうした施設では落ち着いて展示を見ることができる。そして、最初にスタッフの方と会話を交わすので、展示品との距離が縮まりやすい。つまり展示案内などを直接施設の方から伺う機会が得られやすいのである。

案の定、親切なスタッフの方が展示品の案内を申し出てくださり、解説付きで館内説明や神戸の華僑のことを直接伺うことができた。
そして、なんとこのスタッフさん、生粋の日本人ながら親の方針で華僑学校へ小学生から通ったらしい。神戸の華僑学校は地域で評判の学校だったらしく、教育方針もおおらか。両親もそれ故にこの学校を選択したのだろう。
この華僑学校の校長だった愛新翼さんの書が入り口に飾られており、この方は孫文記念館の館長も務められた方だと言う。「愛新」という姓からすると孫文の宿敵側を想起させるが、実際には立場は大きく異なっていたようである。在日華僑に尽くした懐の大きな方だったようで孫文博物館の館長も快諾したらしい。ちなみに孫文は神戸を十数回訪れており、神戸の方にも愛されていたという。

○ 華僑の心意気
愛新翼さんの書には「根生地落」とある。その意味は「いつかは海外で一旗あげて故郷に錦を飾る」という発想とは対照的なものである。「地に落ちて、根を張る」つまり日本の地でしっかりと生計をたてて生きていくという意味だそうだ。
辞書をひいても出てこない言葉だが、同じような言葉で「落葉帰根(らくようきこん)」というなにごとも最後は元の場所に戻る、根本に帰るという言葉もあるとのことだった。

やはり華僑は移民の中でも根性が座っているのである。かつて日本の移民の多くは「故郷に錦を飾る」をもくろんで海外に渡った。つまり、帰国する気満々での渡航であった。いずれ帰国するつもりであったブラジルやアメリカへの移民の多くは、途中で太平洋戦争が勃発したことで、生涯のうちに帰国がかなわなくなってしまうのだった。このことはアメリカ移民の証言集『フッドリバーの一世たち』からもうかがえる。
こうして日本の移民は稼いだら国に帰るという考えがそもそもあったので、移民一世の多くが現地語習得に後ろ向きだった。その一方で帰国後に備えて子供のための日本人学校を数多く作った。しかしながら、ブラジルでは太平洋戦争の際に日本語が禁止になり、それに伴って数百あった日本人学校がすべて廃校となる。
一方で神戸の華僑も大戦中はたいそうひどい目にあったようだ。あらぬスパイの疑いをかけられ拷問死した方もおり、やはり戦争は大きな傷跡を残して分断をひきおこす。

その根性が座った華僑の方々であるが、三把刀(さんばとう)という言葉をスタッフさんから教わった。
三把刀、つまり3つの刀とは、料理人の包丁、理髪師の剃刀、仕立屋の裁ち鋏の3種類の刃物のことを指している。これは華僑が異国で生き抜く術で、衣食住に関わる普遍的なニーズに対応するスキルのどれかを会得し、その土地に根を張ることを目指したらしい。
また、展示室には兵庫県の華僑の出身地分布図が展示されており、興味深いことに移民者は上海を中心とした南のほうからの人が多い。それ故に華僑学校では設立当初は広東語で教育がされていた(現在は北京語教育)。そこで学んだ博物館スタッフさんも中国語にご堪能であり、ちょっとお話を伺うと、中学生からは高校受験対策のために日本語での教育に切り替わるとのことであった。

また、神戸の華僑学校は門戸を広くとっており、今でも台湾出身の方も受け入れているらしい。一方で横浜の華僑学校は政治的背景から中国出身者と台湾出身者とに分裂してしまったとのことだった。

ちなみにこういった神戸華僑の背景から神戸の中華街である南京町で食事をするなら広東料理を選ぶのがよさそうだ。この博物館には昔の南京町の写真や解説も多く、豚まんで有名な老祥記の創業者の写真も展示されていた。南京町は横浜に比べるとこじんまりとした中華街である。その理由は学校やお寺などは神戸各所にあり、南京町に集中していないかららしい。ある意味、神戸に溶け込もうとした神戸華僑ならではの知恵とも言える。

最後に雑談で移民に興味があって、この華僑博物館を訪れた旨をお伝えし、横浜の海外移住資料館について触れた。そうすると「神戸にもあるわよ」となんと”神戸市立海外移住と文化の交流センター”の存在を教えてくださった。
○ 神戸市立海外移住と文化の交流センター
神戸市立海外移住と文化の交流センターは、港側から向かうと元町駅をはさんで山の中腹にある。神戸華僑歴史博物館で紹介を受けて、そのまま散歩がてら徒歩で向かうと30分ほど登山のように坂道をのぼったところにあった。建物は修復中であったが、往時をしのばせる堂々たる姿であった。


それもそのはずである。この建物はかつて国立海外移民収容所として使用されていた施設で、日本政府が移民を奨励した際に出国の準備の場として1928年に設立した建物であった。

かつて移民の支援として移民宿という民間の移民準備施設があった。しかし、神戸ではこの国立の施設ができたためにすべて廃業になったらしい。

海外移住者たちはここで7~10日間滞在し、検査や現地の習わしや語学学習など渡航準備をした。多い時には年間2万人もの人がここから海外に赴いた。

こちらの滞在費は無料で渡航料も国が持つ上に支度金も1人50円ほど出た。基本は夫婦移民、家族移民なので中には偽装家族もいたらしい。

渡航の背景には、後の満州開拓団にも通じる農家の口減らしという事情があった。長男坊がすべてを相続する当時の日本では農家ではやっていけないし、相次ぐ不況もあった。それ故に先の華僑のように手に職をつけるというよりも農業の担い手としての移民が主軸となっていた。そのため館内には農具の展示に広いスペースをとっていた。


ちなみにこの国立海外移民収容所ができた1928年という時代は、日本の移民先として2番目に規模が大きかったアメリカで反日の機運が高まり、アメリカへの移住者が縮小傾向にあった時代である。そこで日本人の移民先としてもっとも規模の大きなブラジルへの移民が主流となっていく時代でもある。
そのため、この”神戸市立海外移住と文化の交流センター”にはブラジル移民の資料が充実している。また展示も南米への移住について詳しく、俯瞰して移民を取り扱う東京の海外移住資料館とは異なった趣であり、海外移住を試みた人々の生々しい声が聞こえてくる展示内容だった。

さらには、ブラジル移民の二世、三世が先祖の出国時の様子を訪ねて、この”神戸市立海外移住と文化の交流センター”に来られると言う。過去の乗船名簿(国会図書館収蔵)をあたって、JICAのデータベースを元に出港時の集合写真などを探し出してあげたりもしているらしい。

ここまで細かな背景を整理できたのも、スタッフの方が全フロアの展示を丁寧に説明してくださったからである。例によって展示パネルを1枚1枚ほぼすべて写真に納めている際に、スタッフさんから「新聞記事など著作権のあるものの撮影については注意ください」と声をかけてくださったことをきっかけに会話が生まれた。その結果、2階含めた全展示ブースの説明をしてくださった。

南米に渡る航路図の前では船会社は大阪商船(現・商船三井)であった、との説明。日本郵船はどうだったのかと尋ねると、儲かる太平洋航路にしぼって喜望峰航路は撤退した。移住者は船倉の三等船室で仮設ベッド暮らし、1つの部屋に何家族も入りエンジンが近く音はうるさいし、赤道を越えるため暑いし難儀な船旅であった、と。仮設ベッドなのは往路で移住者を運んだあと、南米から北米に物資を運び、その後米国から日本に物資を運ぶために船倉を空けるためだったと言う。

こんな案配で行きつ戻りつで説明いただいたのでたいそうな時間、”神戸市立海外移住と文化の交流センター”に滞在することになった。神戸でここまで移民について深く学ぶ機会に恵まれるとは思ってもみなかった。まさに予期せぬ幸運であった。


