プラハ近郊の魅力的な町をご紹介。あわせて若かりし頃のドヴォルザークの足跡をたどる。
● リトムニェジツェ リトミエルジツェ (Litoměřice)
・リトミエルジツェ郷土博物館(Oblastní muzeum v Litoměřicích)
・リチャード地下兵器生産工場(Podzemní továrna Richard / Richard underground factory)
・リトムニェジツェの火葬場(Litoměřické Crematorium / Krematorium Richard)
・美味しいリトムニェジツェ
・リトムニェジツェのアパート泊( U svaté Ludmily )
● ムシェネー・ラーズニェ(Mšené-lázně)
広島県物産陳列館(原爆ドーム)を設計したヤン・レッツェル / ヤン・レツル の手による保養施設 Lázně Mšené, a.s
● ズロンチツェ ズロニツェ(Zlončice)
ドヴォルザークが家業の肉屋の修行をし、音楽の師に出会った街
● ネラホゼヴェス(Nelahozeves)
ドヴォルザークの生家とボヘミア貴族 ロプコヴィッツ 家のお城のある街
● リトムニェジツェ リトミエルジツェ (Litoměřice)
リトムニェジツェはプラハの手前の宿泊地として、隣町のテレジーンも近く、なりゆきで選んだ田舎町。ズデーテン地方のドライブを終えてチェコ北部から南下して、この街に向かった。
なりゆきで選んだ宿泊地ながら調べてみると、なんと10世紀からあるチェコ最古の町の一つらしい。ドイツ名はライトメリッツ。ラベ川(エルベ川)の横の城壁都市でエルベ川で最も重要な河川港の 1つだったらしい。
そして、城壁内の街並がとびっきり素敵で、雰囲気もある上に建物はどれも骨董品。巨大な平和広場(Mírové náměstí)では中世の息吹が感じられる街である。
また、本屋、おもちゃ屋、肉屋、八百屋、パン屋等と小売店があちこちにあり、生活感があふれていて素晴らしい。スマホなぞ持っている人は 見かけないが、本を読み歩きしている人を度々見かけたりもする、のどかさのある街である。
犬を連れて散歩している人も多く、よたよた歩く可愛い老犬も多い。そんな犬を連れている飼い主もたいていは、よたよた歩きをしている。散歩をしている犬は総じておとなしく礼儀正しい、かと言って英国のように躾けられたというよりも、飼い主に似て温厚そうな感じなのが、チェコらしい。
リトムニェジツェ Litoměřice 🇨🇿
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) January 21, 2020
10世紀からあるチェコ最古の町の一つ。ドイツ語ではライトメリッツ。ラベ川(エルベ川)沿いの城壁都市で河川港として発達した。城壁内の街並がとびっきり素敵で建物はどれも骨董品。八百屋、パン屋など小売店が多く生活感あふれるも、巨大な広場には中世の息吹が。 pic.twitter.com/9Sr9xRmVcm
・リトミエルジツェ郷土博物館(Oblastní muzeum v Litoměřicích)
博物館の建物は古く、1500年半ばのもの。旧市庁舎や地方裁判所などに使われ、1910年から博物館として使われている。建物が描かれた古い絵が残っていたが、今に至っても、その形を大きく変えずに残っているのだから驚きで、広場の景色も現在と大きくは変わっていない。
博物館内は近隣の地質、産業、工芸品などの展示、そしてリトミエルジツェの歴史として先史時代、中世、それ以降とブースが別れて展示してある。
リトミエルジツェ郷土博物館🇨🇿(Oblastní muzeum v Litoměřicích)
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) January 26, 2020
建物は旧市庁舎や地方裁判所などに使われ中世の姿そのまま、1910年から博物館として使われている。リトミエルジツェの歴史と産業や工芸品など丁寧に展示。街の模型が正確で、これを見て見事な城壁都市の周囲を散歩する気になった。 pic.twitter.com/ex04F67Hlo
博物館に展示されている街の模型からリトムニェジツェの町が大きな城壁都市であることがわかった。また、郷土博物館の模型には、宿泊しているアパートも中庭含めてしっかり造り込まれていた。細い路地なども当時の状況を造り込まれているので、古い街並み歩きの参考になる。
城壁都市リトミエルジツェ🇨🇿(Litoměřicích)
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) January 23, 2020
中世の趣を多く残すリトミエルジツェは、かつて周囲をぐるりと城壁で囲まれていた。ラベ川(エルベ川)に面した南側の城壁の大部分は今も残っており、夕暮れには美しい景色を織りなす。 pic.twitter.com/AeBYrsaJxw
・リチャード地下兵器生産工場(Podzemní továrna Richard / Richard underground factory)
リトムニェジツェには石灰岩の採掘鉱山があり、この鉱山をナチスドイツは秘密地下工場として再利用した。現地にはGoogleマップだけを頼りに向かってみることにした。しかし、林の中の山道を抜けて付近まで来ても、地図は酷いダート道の先をまだ指し示しており、秘密工場だけになかなか見つからない。そこで車をダート道入口に停めて、藪の中を徒歩で向かうことにした。
木々をかき分け、かすかな道の形跡をたどると、山肌に分厚いコンクリート壁が露出した洞窟工場の入口を見つけた。
この地下兵器生産工場では軍用車両のエンジンを作っていたらしく、洞窟内は全長30 キロメートルにもおよぶ非常に大規模な工場である。隣町のテレジーンなどの収容所から連れてこられた人たちが労働に従事させられた。ここでの労働環境は劣悪で、多くの人が亡くなったと言う。
あまりに規模が大きすぎて、史跡として保存しようにもコストがかかりすぎ放置されている。藪の中でもあるし、夕暮れ時に薄気味悪く、早々に退散した。
リチャード地下兵器生産工場🇨🇿(Podzemní továrna Richard)@リトムニェジツェ
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) January 27, 2020
近郊の石灰岩の採掘鉱山をナチスドイツが改造して造った秘密地下工場。軍用車両のエンジンを造っており全長30 キロメートル近くある大規模なもの。隣町のテレジーンなどの収容者が過酷な労働に従事させられた。 pic.twitter.com/LuBv762BHO
・リトムニェジツェの火葬場(Litoměřické Crematorium / Krematorium Richard)
地下兵器生産工場の麓にあるレンガ工場を ナチスドイツは火葬場に改造し運用した。 近郊の都市オスティ・ナド・ラベムとテレジーンの収容所にある死体焼却炉では処理が間に合わなくなったためだ。1944年後半から過酷なリチャード地下工場と近くにあったリトムニェジツェの強制収容所の死亡率が上昇し、この火葬場は終戦間近に稼働し始める。高い煙突から昇る煙はレンガ造りの為にと思われ、火葬をごまかす効果があった。
リトムニェジツェの火葬場🇨🇿(Litoměřické Crematorium / Krematorium Richard)
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) January 28, 2020
リトムニェジツェにもかつて強制収容所があり、近隣のリチャード地下工場ともに死亡率が高かった。その死亡した収容者を火葬する設備がレンガ工場を改造して急遽造られた。誰も訪れない丘の麓にあり不穏な雰囲気が漂う。 pic.twitter.com/zNrghPZJT6
・美味しいリトムニェジツェ
小売店の多いリトムニェジツェは食材も手に入れやすい、八百屋さんやお肉屋さん、ちょっとしたスーパーも少し歩けばいくつもある。
また、朝や夕暮れ時は子どもがお使いで大きなパンを抱えて歩いている姿も見かける。中世の雰囲気溢れる街にパン屋さんがいたるところにあるのも情緒ある。つい、いろいろなパン屋さんで食べ比べをしてしまい食べ過ぎてしまった。
パン屋さんの多いリトムニェジツェ🇨🇿
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) January 31, 2020
リトムニェジツェの街にはパン屋さんがとても多い、ひとつの通りに2軒ほど隣接していたりもする。総菜を扱っているパン屋もあって簡単な食事であれば、ここですべて揃うし、デザートにケーキもつけられる。
パン屋さんが多い街は幸せが満ちている感じがする。 pic.twitter.com/7by8L3ZU7g
パン屋さんショーウィンドウから🇨🇿@リトムニェジツェ
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) February 2, 2020
菓子パンや小洒落たオープンサンド、家族で食べる大きな丸パン、そしてケーキ。眺めているだけで楽しい。そして、つい食べ過ぎてしまう。 pic.twitter.com/R3CUGzeS6s
・リトムニェジツェのアパート泊( U svaté Ludmily )
この街で逗留したアパートは U svaté Ludmily 。親切なオーナーと古風な建物、更に部屋は広くてラグジュアリーとも言える洒落た部屋で驚いた。
アパート前付近に車を停め、アパート玄関に行くと鍵が閉まっていて、どうにもならない。到着時間は booking.com 経由でやりとりしたばかりなので、てっきり玄関付近で、すんなりお会いできると思っていた。
こういった場合はアパート玄関そばのお隣さんに尋ねるのが1番。扉のお隣がお店であったので入店して尋ねると、一発でビンゴ。「コットン」という店名のこの洋服屋さんを営むご婦人がアパートのオーナーであった。店に入るとすぐに「あなたね?」と(チェコ語なので、たぶんそう言っている)。オーナーは英語が話せないらしく、お友達なのか横にいたスラブ美人のご婦人が通訳兼仲介に入ってくださった。
お願いしてあった駐車場もしっかり確保されていて、駐車カードをお借りしてアパートの向かいの駐車スペースに車を停めた。この時もオーナー自らが駐車位置を誘導してくださる。その後は、3人でお借りする部屋へ行き、一通りの説明と鍵の受け渡しは完了。サインもパスポートも不要とのこと、大らかで頼もしい(笑)。
部屋はキッチンもバスもとても綺麗で、アパレル店を営むオーナーのセンスのよさを感じる。そして、気持の良いオーナーに、ほっと一安心。2泊しかしないことがもったいないと、宿泊する前から感じてしまう。
そして、3日後のチェックアウト時の朝、扉を開けると手作りのパイと焼き菓子がドアノブにさがっている。早朝の出発時間を知るオーナーさんのご厚意で早めにくださったのだろう。
● ムシェネー・ラーズニェ (Mšené-lázně)
宿泊地のリトミエルジツェ(Litoměřice)を出発しプラハに向かう途中、まず立ち寄ったのは広島県物産陳列館(原爆ドーム)を設計したヤン・レッツェル / ヤン・レツル の手による保養施設 Lázně Mšené, a.s 。ムシェネー・ラーズニェ (Mšené-lázně)という村にあり、独特のアールヌーヴォーの装飾がチェコの田舎の村に多少の違和感と共に目立つ。
ムシェネー・ラーズニェ (Mšené-lázně)
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) November 11, 2019
プラハの北50キロほどの村。広島県物産陳列館(原爆ドーム)を設計したヤン・レッツェルの手による保養施設(Lázně Mšené, a.s)がある。独特のアールヌーヴォーの装飾が面白い。 pic.twitter.com/jGXWe3lodE
● ズロンチツェ ズロニツェ (Zlončice)
次に向かうのはズロンチツェ(Zlončice)。ここはドヴォルザークが家業の肉屋の修行をした街で、生家があるネラホゼヴェス(Nelahozeves)から20キロ程度離れた田舎村。交響曲第1番には「ズロニツェの鐘」(Zlonické zvony)とタイトルがつけられていて、是非とも訪れてみたかったところだ。そして、この街でドヴォルザークは最初の音楽の師に出会い、本格的な音楽の勉強が始まった。
村の中心にドヴォルザークの博物館があり、その横には彼の像がある。そこからは大きな教会が見え、交響曲第1番の副題となっている「ズロニツェの鐘」とは、この教会の鐘なのだろうか、と思う。
修行した肉屋さんの形跡はないか探そうと町をうろついたてみたが、小さな町で教会付近の中央広場以外には商店はなく、それらしきお肉屋さんはなかった。ドヴォルザークが修行した当時は肉屋になる為にはドイツ語を習得しなくてはなららなかった。 そのドイツ語をズロンチツェで習った先生が町のオルガン奏者と楽長であり、彼から音楽理論や各種楽器奏法をドヴォルザークは教わっている。結局、父の望んだ家業を継ぐこと、肉屋の修行が、彼が音楽家になる大きなチャンスを与えたのだから面白い展開である。
ズロンチツェ(Zlončice)
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) November 11, 2019
ドヴォルザークが家業の肉屋の修行をしつつ、音楽との出会いがあった地、是非とも訪れてみたかった。交響曲第1番は「ズロニツェの鐘」のタイトル、中心部のドヴォルザーク像から大きな教会が見える。この教会の鐘なのだろうか、と。肉屋さんも探したが見つからず(笑)。 pic.twitter.com/2vkivXnya1
● ネラホゼヴェス(Nelahozeves)
そして、ドヴォルザークの生家があるネラホゼヴェスに向かう。ここはドヴォルザークの生家というよりも、ボヘミア貴族 ロプコヴィッツ 家のお城であるネラホゼヴェス城(Zámek Nelahozeves)があることで有名な街。プラハ市内の ロプコヴィッツ 家の邸宅では収まりきらないアートがたくさん置いてあるらしい。プラハ市内の邸宅美術館もたいしたコレクションなので、こちらもきっと凄いのだろう。訪れた冬の時期はシーズンオフで閉館中なので、いずれ再訪したところである。
ドヴォルザークの生家(Památník Antonína Dvořáka)はその ロプコヴィッツ のお城の真下で、相応に立派な家。ただ子だくさん故にドヴォルザーク家の家計は楽ではなかったようだ。父はここで肉屋と宿屋を営んでおり、商売人の彼は快活でヴァイオリンやチターを弾き歌も上手だったらしい。ドヴォルザークは父といっしょに村の楽団でヴァイオリンを弾いたり、宿屋の客や村のお祭りでも演奏し、その腕前は両親の自慢だったと言う。また、彼が生涯鉄道ファンだったことは有名な話で、ドヴォルザーク家の目の前には8歳の時に鉄道が敷設された。幼少の頃から汽車の音などになじんでいたのだろう。
ネラホゼヴェス(Nelahozeves)
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) November 11, 2019
ドヴォルザークの生家はロブコヴィツ家のお城であるネラホゼヴェス城(Zámek Nelahozeves)の真下で、相応に立派なお宅。ドヴォルザークは鉄道ファンなのは有名な話で、生家の目の前には鉄道が走っている。幼少のころから汽車の音に馴染んでいたのだろう。 pic.twitter.com/udzYdXlhnt