戦後ベルリンに希望をもたらした指揮者ボルヒャルトやフルトヴェングラーの縁のティタニア パラスト(Titania Palast)訪問 / 『舞台・ベルリン―あるドイツ日記1945/48』を読む

戦後ベルリンに希望をもたらした指揮者ボルヒャルトやフルトヴェングラーの縁のティタニア パラスト(Titania Palast)訪問 / 『舞台・ベルリン―あるドイツ日記1945/48』を読む

凄惨な時代に音楽が果たす役割は大きい。ベルリンの壁が崩壊してから四半世紀が経過。戦後ベルリン・フィルの復活に貢献した指揮者レオ・ボルヒャルト(Leo Borchard)に思いを馳せる。
ベルリン逗留中に読んだ終戦前後のあるドイツ日記
がれきに埋もれたベルリンで奔走した音楽家
凄惨な日々に音楽がもたらした光

(以前、日経ビジネスオンラインに連載した記事を加筆再編集して掲載しております)

● ベルリン逗留中に読んだ終戦前後のあるドイツ日記

1989年11月9日にベルリンの壁が崩壊してから、四半世紀が経過した。しかし、戦中戦後から壁が築かれるまでの間もまたベルリンの市民にとっては苦渋の日々であった。

ベルリンに滞在中、書籍『舞台・ベルリン―あるドイツ日記1945/48』をずっと携え、ゆっくり読み眺めていた。終戦前後にベルリンに住んでいたジャーナリスト、ルート・アンドレーアス=フリードリヒが書き綴った日記なのだが、混乱と狂気の世界を淡々と描いた重い内容のせいで、どうしても一気に読み進める気にはなれず、読み終えるのに2週間を要してしまった。

終戦直後のベルリンはドイツの敗戦処理の中心地であり、そのプロセスは先々の東西分裂の道程でもあった。

その最中にあったベルリン市民の生活は過酷を極めていた。同国民でありながらナチスに協力した者への非情な対応、突然に侵略してきたソビエト連邦による収奪、アメリカやイギリスへの淡い期待と煮え切らない態度への失望。フリードリヒは、こののっぴきならない状況を、市井の人々の視点で淡々とつづっている。

● がれきに埋もれたベルリンで奔走した音楽家

その記述の中で、思いもよらず、ある音楽家の記載を見つけた。レオ・ボルヒャルトという指揮者だ。

ボルヒャルトは終戦直後、がれきの中からベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を再生させた指揮者である。当時の演奏会場であったティタニア・パラスト(Titania-Plast)を訪れると、その名前が記されたプレートが掲げられている。

ティタニア・パラストの壁面に貼られているプレート。「ベルリン記念牌:1945年5月26日 レオ・ボリヒャルト指揮によるベルリン・フィルの戦後初の演奏会があった」とある
ティタニア・パラストの壁面に貼られているプレート。「ベルリン記念牌:1945年5月26日 レオ・ボリヒャルト指揮によるベルリン・フィルの戦後初の演奏会があった」とある

20世紀を代表する指揮者でありベルリン・フィル再建と関係が深かった人物と言えば、フルトヴェングラーやチェリビダッケが挙げられる。ボルヒャルトはこの2人よりも先にベルリン・フィルを指揮しているのが特筆すべきところである。

先に紹介した書籍においては、登場人物の名前は当時の政治情勢ゆえにすべて匿名表記となっている。このボルヒャルトの名は「アンドリク」であると後書きに記されている。

終戦から数週間しかたっていない1945年5月26日、戦後初のベルリン・フィルの演奏を彼が実現した。日記によると、ボルヒャルトは終戦と同時におんぼろ自転車で12日間ベルリン中を走り回り、許可申請や楽器集めをしたそうである。

ティタニア・パラストは連合軍の爆撃により焼け野原になったベルリンで、難を逃れた唯一のホールだ。ほかのコンサートホールや歌劇場は激しい戦火で失われてしまった。

戦火の後に焼け残っただけあり、ティタニア・パラストはベルリンの中心地から少し離れた場所にある。最寄りの駅は地下鉄のU9 Walter-Schreiber-Platz駅と、ベルリン中心地のほぼ南西に位置している。

ここは元々映画館であったが、戦後しばらくはコンサートホールとして使われた。数々の歴史的な名演が録音として残されており、今でもその名が語り継がれている。

なかでも、1947年5月25日のフルトヴェングラーの復帰コンサートにおけるベートーヴェンの「運命」の録音は、愛聴者も多い。強烈な印象を残す素晴らしい演奏だ。蛇足ながら、復帰3日目(5月27日)の演奏会場はティタニア・パラストではなくベルリン放送スタジオもののようだが、巷の評価はこちらのほうがいくばくか高いようだ。しかし、緊張感と期待感が会場に充満している初日の録音を断然お勧めする。

● 凄惨な日々に音楽がもたらした光

実は、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団だけでなく、このティタニア・パラストもボルヒャルトの活躍によって、コンサートホールとしての命を救われている。当時、ベルリン市民の唯一のコンサートホールとして機能し始めていたティタニア・パラストを、心ない米軍が彼らのクラブハウスにするため接収してしまった。

そこで、ボルヒャルトはまたしてもがれきで埋め尽くされたベルリン市内を自転車で駆け巡り、何カ所もの役所におびただしい数の請願書を提出。いつ終わるともしれぬ交渉を重ねて返却にこぎつけたのだ。

ティタニア・パラストは現在、再び映画館として使われている

さて、その戦後初の演奏会であるが、当日の劇場前は黒山の人だかり。そのときの様子をフリードリヒはこう日記につづっている。

「彼らは徒歩や自転車で瓦礫と化した住まいから、日々の憂いの中から、夜々の不安の中からやってきた。最初の曲はナチスに禁じられていたメンデルスゾーンの『真夏の夜の夢』。そしてお次は、はずむピチカートのチャイコフスキーの4番。映画館のホールも目に入ってこなかった。廃墟は目に入ってこなかった。ナチがいたことも、戦争に負けたことも、占領軍に占領されていることも忘れてしまった。突然すべてがどうでもよくなった。重要なのはヴァイオリンが歌っていることだけだった」

この背景には、ベルリンの悲惨な状況がある。最後の最後まで降伏をせずベルリンを廃墟にしてまで自らを守ろうとしたナチス幹部の存在、敗戦国ゆえのなけなしのインフラ設備まで奪われる困惑(鉄道の線路までもが賠償と称してソ連に持って行かれた)。また、ベルリンの女性達のほとんどは先にベルリンに入場したソ連軍兵士に陵辱され(その後の私生児の堕胎問題にも日記は触れている)、来たる冬の季節には、氷点下数十度の中で年老いた者、病弱な者から次々と凍死・餓死をしていくさまが、実に淡々と日記に記載されている。

占領軍は自らの権益確保のための会議ばかりに時間を費やし、ベルリン市民の生活は二の次だった。特にソ連側は賠償をいかに取るか、また反政府(親ソ連ではない)人間をいかに排除するかに熱心で、結果、次々と秘密裡に人が消えていったらしい。

戦争末期は幾多もの空襲やソ連軍の侵攻による地上戦に巻き込まれるなど、ベルリン市民の凄惨な日々は続いた。しかし、終戦を迎えてもいっこうに希望の光が見えない中で、音楽や芝居の果たした役割が切々とつづられている部分を読むと、じんわりと感動を覚える。

中盤でボルヒャルトは西側の軍の誤射によって、フリードリヒの真横で息絶える。なぜに一般市民が誤射で死んでしまうのか。作曲家のウェーベルンも同時期、同様に連合軍の誤射で射殺されてしまった。当時終戦していたにもかかわらず、それぐらい東西の緊張は高まっていたのだ。

現在、ベルリンは平和そのものだ。特に壁崩壊後は大きな再開発によって、戦争の悲惨な片鱗はもうほとんどなくなっていた。

1989年当時のブランデンブルク門。手前はベルリンの壁(西ベルリン側から)
現在の同じ場所より撮影。当時は検問所を通る為、反対側(東ベルリン)に行くには数時間を要した。今は壁もなくなり、門をくぐって1分で反対側に行ける

ドイツ / ベルリン