リトムニェジツェ(Litoměřice)に逗留したことには訳がある。それは、ここから5キロほど離れた街テレジーン(Terezín)を訪問するためであった。テレジーン(ドイツ語名 テレージエンシュタット)は名前の通りマリア・テレジアの名にちなんで命名され、ハプスブルク家が構築した要塞都市。かつては立派な街だったようだが、今は史跡関連施設以外は寂れていて宿泊施設もこころもとない。そこで、宿泊は隣接するリトムニェジツェにして、そこから通うことにした。
テレジーンは第二次大戦時にナチスドイツによってユダヤ人ゲットーや収容所として使われ、多くの方がこの地で亡くなった。その中には多数のユダヤ人の子供がおり、これに関する施設や2冊の本の紹介にも重点をおいた。
テレジーンについて詳しい日本語サイトや書籍は少ないので、丁寧にまとめてみた次第である。
● テレジーンへ
● ナチスに蹂躙された第二次大戦中のテレジーン
● ナチスドイツによるユダヤ人弾圧の偽装工作
● テレジンの子供たち / 『テレジンの子どもたちから―ナチスに隠れて出された雑誌「VEDEM」』
● VEDEM と プラハ日記 アウシュヴィッツに消えたペトル少年の記録
● テレジーンに収容されていた指揮者カレル・アンチェル
● テレジーン大要塞の各施設
・マクデブルク兵舎(Památník Terezín – Magdeburská kasárna)
・遺骨安置所(Kolumbárium)
・火葬場(Krematorium)
・ゲットー博物館(Terezín Memorial – Ghetto Museum)
● テレジーン小要塞(Památník Terezín – Malá pevnost)
● テレジーンでの食事 レストラン Atypik
● テレジーンへ
テレジーンの町はリトムニェジツェから車で10分ほどだった。ここは見事な城塞都市が2つ残っており、ひとつは大要塞、もう1つは小要塞と呼ばれ、オフジェ川(ドイツ語名エーガー川)をはさんで1kmあまりの距離にある。
ともに1780年にオーストリアのヨーゼフ2世が対プロシア防備の為につくらせた。その後、第一次大戦時には捕虜収容所として、戦後は軍隊の駐屯地として使われていた。そして、第二次大戦時はナチスドイツによって大要塞は街全体がユダヤ人ゲットーとして、小要塞は監獄や収容所として使うことになり、現在は大要塞、小要塞ともに内部に史跡や博物館が多くある。
テレジーンの町である大要塞内は大きな割に閑散としており、チェコの発展から取り残されたようだ。廃墟の建物もたくさんあり、人もまばら、道路も未舗装のところがあり、かなりすさんだ印象を持つ。ホテルも少ないし、ここでの宿泊を避けて正解で、なんとも言えない風情である。
町の真ん中まで来ると、駐車も無料でできそうなところがあるので、広い広場の片隅にレンタカーを停めた。
テレジーン(Terezín)🇨🇿
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) February 3, 2020
ドイツ語名テレージエンシュタットはマリア・テレジアの名にちなみハプスブルク家が2つの星形要塞都市をつくった。第二次大戦中はナチスドイツが大要塞の街全体をユダヤ人ゲットーに、小要塞をゲシュタポが監獄や収容所に使った陰惨な歴史を持つ。史跡多く寂れた街は心さびしい pic.twitter.com/AMR0hTLL3F
● ナチスに蹂躙された第二次大戦中のテレジーン
テレジーンの大要塞には1941年から終戦までの間に14万人のユダヤ人が連れてこられ、先住していたチェコ人は追い出された。そして、ここからアウシュビッツなど処刑の地へ運ばれた。しかし、中継収容所としての設置されながらも、ここでも3万3000人以上の方が亡くなっている。小要塞のほうでは、ゲシュタポ(ナチスの秘密警察)が刑務所として使用し32,000人が投獄され、後に強制収容所へ移送された。また、小要塞でも250人が処刑され、2,500人が拷問と劣悪な環境故に亡くなっている。
ナチスドイツによるテレジーンの目的は以下の3つと言われている。
1.ポーランドなどの絶滅収容所に送られる前の通過収容所、強制収容所
2.囚人の大量殺戮
3.ユダヤ人の隔離の偽装工作
テレジーンが他の収容所と異なったのは、通過収容所であったこと、ユダヤ人弾圧を国外へ向けて隠蔽する為の偽装がおこなわれたこと、があげられる。その偽装目的の為に、多くの芸術家や文化人が収容されており、収容されていた15,000人近い子供たちも利用された。
● ナチスドイツによるユダヤ人弾圧の偽装工作
テレジーンで撮影されたナチスのプロパガンダ映画がある。これを偽装工作の映像と知ってから見ると薄ら寒くなる。収容されたユダヤの人々がご機嫌かつ晴れ晴れとした創作活動や労働する姿、ゲットー内での各種自治活動が撮影されており、事実と全く異なる様に気分が悪くなる。
ここに登場するユダヤ人収容者は「俳優」として選ばれた人で、ナチスの人種主観によって金髪ではない「典型的な」ユダヤ人を選び、食事も十分に摂り、日焼けした人(強制労働の為の日焼け)が選ばれたと言う。
テレジーン収容所の偽装工作🇨🇿
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) February 4, 2020
ここではユダヤ人弾圧を隠蔽するプロパガンダ映画がつくられ,収容者がご機嫌かつ晴れ晴れと創作活動や労働に勤しむ姿が写る。撮影には非金髪等のナチス主観のユダヤ人に,この時だけ食事を充分与え,強制労働で日焼けした人が選ばれた。事実と正反対の映像に不快さが増す。 pic.twitter.com/cL0o1ojvLs
また、プロパガンダ映画とは別に赤十字によるテレジーンの視察も行なわれたが、ここでも機能していない表向きだけの商店街や庭園などがつくられて活用された。更に酷いことにゲットーの過密さを見栄え良くするために、 視察前にアウシュヴィッツ強制収容所へ収容者の移送もおこなわれた。映画や視察に協力させられたユダヤ人達も偽装工作が済むと、すぐにアウシュヴィッツに送られたと言う。
● テレジンの子供たち / 『テレジンの子どもたちから―ナチスに隠れて出された雑誌「VEDEM」』
テレジーンに収容されていた子供たちがこっそり発行していた雑誌「VEDEM」の存在がこの子どもたちの酷い収容生活の実態を有名にしている。また、秘密裏に子どもたちの為に絵画教室を開いていた先生もおり、その絵画が記録として多く残されている。林幸子さんの書いた『テレジンの子どもたちから―ナチスに隠れて出された雑誌「VEDEM」』に古書店で出会い、これらのことを初めて知った時は衝撃的であった。
当時のテレジーンでは、10歳以下の子供は親と暮し、10歳から15歳の子供は男女別れて寮のような建物に収容され、16歳以上は大人と同じ扱いだった。その10歳から15歳までの男子が収容されていた「L417 男の子の家」と呼ばれる建物の一室で雑誌『VEDEM』は生まれた。建物には50人程度が暮しており、 10室に分かれていた。その中の1号室に集る年長組が雑誌『VEDEM』の出版の担い手となる。
『VEDEM』とは「我が導く」という意味だそうである。1942年12月から1944年6月までの1年半の間、毎週金曜日に発行され、総ページは800ページにも及ぶ。テレジーンでは、子供でも労働に従事させられ、朝の7時から夜の7時まで畑仕事などを強いられていた。その過酷な労働の合間に記事が書かれていたのだから驚きである。内容はテレジーンでの生活やプラハの思い出と多岐に渡り、詩なども掲載されていた。
中でも、ユダヤ人の弾圧や隔離政策をナチスが外部に隠す為の偽装工作について書かれた記事が印象的であった。スウェーデンの国際赤十字の視察に応じたドイツ軍は到着までにテレジーンの悲惨な状態を見違えるように綺麗にして隠し通そうとする。
この時の子供が書いた記事には、特別な日としてランチに大きなパン、大盛りのおかず、ミルク入りのコーヒー飲み放題、夜ご飯はクリームソースつきのお団子がでる、と告知があったと細かく記されている。他にも特別に布団やマットレスを屋外で、はたいたり部屋の清掃ができるなど嬉しそうに書かれている。更にはドイツ軍は偽装の為に商店の商品に値札が初めてつけられ、通常は買うことができない品々が並んだことも綴られている。結局、視察があると告知された当日は視察はなく、食事もいつもの貧しいものになり、記事の行間からその悔しさが滲みでていた。
客観的なゲットーに関する記述が多く、その一方では少年らしいユーモアに満ちた友人達の描写記事もある。これら貴重な記事の掲載された『VEDEM』の雑誌原本が がナチスに奪われず、戦後まで残ったのは奇跡である。その残った理由とはゲットーにいた、たった一人の鍛冶屋のおかげであった。当時、馬の蹄鉄は必需品でテレジーン界隈で蹄鉄の取り付けができる鍛冶屋は一人しかいなかった。その為、彼はアウシュビッツに送られないでいた。その鍛冶屋の息子が『VEDEM』を隠し、戦後まで残したのだった。
テレジンの子どもたちから―ナチスに隠れて出された雑誌『VEDEM』より 林 幸子 著🇨🇿
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) February 9, 2020
テレジーンに収容された子どもたちの恐ろしい実態、文化活動を糧に、健気に日々を生き抜く少年達の姿が胸を打つ。テレジーンを訪問するきかっけとなった本。https://t.co/qp5jk8PHXv
● VEDEM と プラハ日記 アウシュヴィッツに消えたペトル少年の記録
こちらは、プラハという馴染みのある都市の名前からなんの気なしに手に取り購入した。テレジーンとここまで深い少年だったとは知らなかった。日記をつけたギンツ・ペトルは『VEDEM』の編集長だった少年。この日記はプラハからテレジーンに連れて行かれる直前までつけられていた日記で、これを読むと当時のプラハのユダヤ人社会がナチスドイツの政策でどんどん歪んでいくことがわかる。
「鉄道員に誘われて列車の中に入った。とても感じのいい人だった。どうせユダヤ人はドイツ人にすべてを差し出さなければならないのだから、外套を売ってくれないかパパに聞いてくれ、とせがまれた。」(1941年10月16日)
「午前中、宿題をやった。特に変わったことはなし。だけど本当はかわっていることはたくさんあるのに、見えていないだけだ。今の時代にまったく当り前の出来事は、普通の時代だったら大問題になるはずだ。
たとえばユダヤ人は、果物、ガチョウや家禽類、チーズ、たまねぎ、にんにく、その他たくさんのものが禁じられている。受刑者、頭のおかしい人、ユダヤ人には煙草が配給されない。市電、トロリーバスの一両目には乗ったらいけない。ヴルタヴァ河畔を散歩したらいけない、などなど。」(1942年1月1日)
「毛皮のコート、すべての毛皮製品、ウールの下着、プルオーバーなどを差し出すようにいう命令が出された。下着は各自一組のみ取っておくことができる。」(1942年1月11日)
この日記をペトルは明瞭な文章で書き綴っている、その才能がテレジーンに行って更に開花する。ペトルは『VEDEM』を編集する傍ら、自らも多くの記事を書いた。彼の母親はユダヤ人ではなかったので強制収容所に収容されず、息子のペトルに日々小包を送ることができた。その中にはクレヨンや絵の具があり、これが『VEDEM』を継続させる力となっていた。
先の書籍『テレジンの子どもたちから』にも、ペトルの書いた仲間の描写、世話になった教員の描写が彼の書いた記事の形で掲載されている。正確でその場の雰囲気がリアルに伝わってくる。
プラハ日記 アウシュヴィッツに消えたペトル少年の記録 ハヴァ・プレスブルゲル 著🇨🇿
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) February 11, 2020
平凡な日常入り込んでくるこの悪魔の空気感を淡々と綴り、追体験させられる。大人の悲嘆にくれる日記よりも怖く辛く悲しい。
後にテレジーンに連れて行かれた彼は雑誌『VEDEM』を発行する。https://t.co/juEfzC3lI7
● テレジーンに収容されていた指揮者カレル・アンチェル
チェコフィル指揮者のカレル・アンチェル(Karel Ančerl)もテレジーンに収容され、ナチスのプロパガンダ映画にも協力させられる。しかし、その後に家族ともにアウシュビッツへ送られ、息子と妻はそこで絶命した。このアンチェルの生涯はこちらの本に詳しい。
アンチェルに関する日本語文献は少なく、この本はとても貴重。家族含めてアウシュビッツに送られた背景にファシズムの風刺劇を指揮したことがあったとは、この本で初めて知った。戦中の体験にも戦後のチェコでの疎外感にも、アンチェルは寡黙を貫く。その姿勢に凄みある真摯な姿と徳を感じる。
テレジーン(Terezín)
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) November 11, 2019
マリア・テレジアにちなみ命名された星型の城塞都市、ナチスがユダヤ人収容所として使った為、破壊なく残存。
チェコフィル指揮者のアンチェルさんは最初、テレジーンに収容され、ナチスのプロパガンダ映画にも協力させられる。その後に家族ともにアウシュビッツへ送られた。 pic.twitter.com/1r6tV1QSZR
尚、アンチェルのお墓はドボルジャークやスメタナと供にプラハのヴィシェフラット民族墓地にある。
一昔前のお話ですが、
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) September 23, 2018
チェコフィルと言えばこの指揮者、
アンチェルさんでした。
たまたまプラハのお墓で出会いました。 pic.twitter.com/kenuwDABya
アンチェルさんのチェコフィルで
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) October 15, 2018
ドヴォルザーク『謝肉祭』
今のチェコフィルはもっと演奏上手なのだけれど、
ウィーンフィルがシュトラウスを演奏するような、
自国作曲家へのみなぎる自信と敬愛が素敵でシビれる。#アンチェル #チェコフィル #ウィーンフィル #ドヴォルザーク pic.twitter.com/XNVp0K3mmu
● テレジーン大要塞の各施設
大要塞内は星形要塞に囲まれ、広場を中心に建物が碁盤の目のように並んでいる。書籍『テレジンの子どもたちから』から拝借した地図では⑤となっているのが広場だ。この周囲に史跡や博物館が点在している。
・マクデブルク兵舎(Památník Terezín – Magdeburská kasárna)
大要塞でまず訪れたのはマクデブルク兵舎、先の地図では㉕となっている。展示品も多く。ここがどうやら各展示施設の中枢のようだ。受付の親切なご婦人が応対して下さり、日本から来たと伝えると、日本の企業にサポートを受けている旨の説明をしてくれた。あわせて、付近の施設の概要を個別丁寧に教えてくれる。そして、数あるガイド本からお勧めを紹介していただき、資料用に一冊購入する。
テレジーンの施設は東部のアウシュビッツなど絶滅収容所の準備が整うまでここでユダヤ人を集める為の通過収容所として使われていた。当然管理が厳しい収容所生活を強いていたが、対外的に偽りの説明をし、強制収容所の存在をごまかす為に、このテレジーンにかぎってはナチスは芸術活動を認めた。偽善的な目的ではあったが、収容されていた人々や子供たちにとっては、大きな息抜きの時間であったらしく、ひとつの文化が花開く。そうした文化的な活動はコンサート、演劇、勉強会、絵画などに及んだ。
マクデブルク兵舎の展示内容はゲットー時代の部屋の様子、ゲットーでの音楽活動、美術活動、文学や演劇活動などをテーマに各ブースが区切られ、豊富な展示がなされている。どこも圧倒される展示数で見応えは十分にあり、当時の盛んな芸術活動がよくわかる。絵画などはゲットーの生活など暗い内容も多いが、演劇やオペラなどはプロのパフォーマーも多く捕らわれていたことから、通常の演目がクオリティ高く上演されていたことがわかる。
また、マクデブルク兵舎の中庭に面した小部屋には「真実と嘘」と題されたテレジーンゲットーで撮影されたナチスのプロパガンダ映画のブースがある。先に紹介した通り、劣悪な環境下で、さも快適であるかのような演技を強いられたユダヤ人たちを想うと不快なかぎりの映像であった。
マクデブルク兵舎🇨🇿(Památník Terezín – Magdeburská kasárna)@テレジーン
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) February 10, 2020
ユダヤ人ゲットーとして使われた大要塞は街1つ分あり、ここの展示では街の建物内の様子を実物大展示で知ることができる。また、テレジーンだけに認められた文化活動-コンサート、演劇、絵画の様子が詳細展示されている。 pic.twitter.com/EPXJGAZQSr
・遺骨安置所(Kolumbárium)
マクデブルク兵舎を後にして8角の星形城壁の外へ向かうと外側の城壁内に Kolumbárium(遺骨安置所)がある、先の地図では㉞葬儀場となっている。
ここはテレジーンがユダヤ人のゲットーと収容所だった時代に数千人の犠牲者の遺物を保管していた。テレジーンの火葬場ができてから、とにかく膨大な数の遺体が焼かれ、数千人もの犠牲者の遺体を保管するスペースが必要になった。そこで、城壁内の部屋に棚が設置され、遺骨を納めることになった。
遺骨安置所🇨🇿(Kolumbárium)@テレジーン
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) February 13, 2020
テレジーン大要塞、小要塞では大戦中、3万を超える人が亡くなっており、ここで数千人の犠牲者の遺物を保管した。隣接する火葬場完成後、膨大な数の遺体が焼かれ、犠牲者の遺体を保管するスペースが必要になった為、城壁内に棚を設置し遺骨を収納した。 pic.twitter.com/EKRq999hXs
・火葬場(Krematorium)
城壁から更に外に向かうと犠牲者の墓地と Krematorium(火葬場)がある、先の地図では㉟墓地と死体焼却場となっている。ここはゲットーの犠牲者やゲシュタポ警察刑務所で亡くなった方の火葬場として使われていた。ゲットーの設立から解放まで、テレジーンでは35,000人の囚人が亡くなっている。
火葬場から団体客が丁度出てきて帰るところで、管理人のおじさんが戸締まりをしていた。私を見かけた管理人のおじさんが「中を見たいのか?」と、そして、わざわざ施設の扉を開け直してくれた。足早に中を見て、お礼を伝える。にこりとして自転車に跨がり、そのおじさんは立ち去っていった。本当にのんびりと優しい方が多い国である。
この火葬場は大要塞のゲットーと小要塞にあったゲシュタポの刑務所で亡くなった人の焼却がおこなわれた。作業は収容者がおこなうが、酷い扱いを受けて亡くなった人に限っては他の収容者が死体を見ないように対策が練られたと言う。また、リトムニェジツェの強制収容所からも死体が寄せられた。こちらはナチスの地下工場の劣悪な労働と伝染病で大量の死者が出た為、リトムニェジツェの火葬場ができるまではテレジーンで処理するしかなかったのだろう。火葬場の脇には検死室も備わっており、金歯の回収も収容者がやらされた。
火葬場のしくみは雑誌「VEDEM」にも詳細が掲載されている。炉の温度が1200度であるとか、1つ炉で石油が6~8リットル必要で一体を焼くのに25~40分かかると図入りで説明されている。こういった記事が客観的に書かれていること、子供の日常に大量の死や火葬場があること、強い違和感を感じさせる部分である。
この火葬場の前には埋葬地があり戦後整備され墓地となっている。ここには大きなメノーラー(ユダヤ教の燭台)のオブジェがあり、少し離れたところにはソ連兵士の犠牲者への記念碑もある。
火葬場🇨🇿(Krematorium)@テレジーン
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) February 14, 2020
ゲットーやゲシュタポ管轄の刑務所で亡くなった方の火葬場。チフスなど伝染病もまん延し大量の死者が出ており、近郊からも遺体が寄せられたが火葬が間に合わなくなるほど劣悪な環境であった。火葬場前は墓地でメノーラー(ユダヤ教の燭台)やソ連兵の記念碑もある。 pic.twitter.com/dabkUs3B6u
・ゲットー博物館(Terezín Memorial – Ghetto Museum)
1991年秋にオープンした博物館、先の地図では①となっている。大要塞がユダヤ人ゲットーとなっていた時代、この建物は「L417」と呼ばれる少年の収容施設だった。雑誌「VEDEM」を発行し、ペトル少年たちがかつて暮していた建物だ。
この建物にゲットー博物館をつくることは悲願だったが、時の共産主義政権の反対にあった為、オープンまで戦後からかなり時間を要したということだ。なんと政権側は長らくこの建物を警察博物館として使っていたらしい。
この博物館はパネル展示中心である。ツアーで見学しているグループが2組ほどいた。内容は「ユダヤ人問題 1941〜1945」 と題され、戦中のユダヤ人迫害をチェコに限らず網羅的かつ丹念に説明している。すべてのパネルなど読めるはずもない分量のパネルがあり、ツアーの方も、かいつまんで説明している。その中で強い語気でハイドリッヒの名前を連呼しているガイドさんの声が聞こえる。ラインハルト・ハイドリヒ はプラハで暗殺されたナチスの高官でチェコスロバキアを監督していた人間、未だに許しがたい人物なのだろう。
ゲットー博物館🇨🇿(Terezín Memorial – Ghetto Museum) @テレジーン
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) February 16, 2020
戦後、共産主義政権の反対にあい、1991年秋にやっとオープンした。ゲットー時代に建物は「L417」と呼ばれる少年の収容施設であり、雑誌「VEDEM」はここで生まれた。展示内容は戦中の欧州ユダヤ人迫害を網羅的かつ丹念に説明。 pic.twitter.com/W0Gnc3zEH0
目をひいたパネルのひとつに「テレジーンのユダヤ人の輸送(1941〜1945)」というのがあった。地図上の円形は、テレジーンへ移送された都市とその人数規模を表し、正方形はテレジーンから移送された場所(強制収容所)を表す。これをみると通過収容所としてのテレジーンの規模の大きさがわかる。
また、テレジーンに収容されていた子どもたちの絵もいくつか飾られている。
● テレジーン小要塞(Památník Terezín – Malá pevnost)
大要塞から1キロ少々離れたテレジーン小要塞には駐車場があると言うので車で向かった。駐車場からとぼとぼ歩くと、堀の向こうに小ぶりな要塞が現れる。
入口脇にはテレジーンの歴史パネルのブースがあり、簡単ながらドイツ占領下の収容所としてテレジーンより前の時代の歴史を知ることができる。
ナチスドイツに支配されている時の小要塞は、収容所としても秘密警察の刑務所としても使われていた。多くの抵抗グループのメンバーがここに収容されており、死者も多数。小要塞では小規模な博物館と収容所跡を見て歩くような形になる。埃っぽく、11月にして酷く寒い、当時はいかほどの状況だったのだろうか。
設備が整ったように見える部屋もあるが、これも視察団向けの偽装工作だったりする。例えば、赤十字社の視察に向けて整備された見せかけの洗面所があり、実際に使用されることはなかったと言う。
中庭には領主の館(Herrenhaus )と呼ばれ、刑務所長のハインリッヒ・ヨッケルとその家族が暮していた立派な建物がある。
その向かいはナチスの親衛隊の兵舎だったが現在は資料館になっており、ユダヤ人弾圧の歴史のパネルと関連展示やアートギャラリーで構成されている。
興味深かったのは戦前のチェコスロバキアではアートジャンルとして確立されていた政治漫画の展示。ヒトラーのカリカチュアや、ナチスとナチスにかぶれた者を揶揄する内容であり、チェコは絵本の国だけあって、ひとひねりした漫画が多い。そして、こうした政治的漫画家も多くが強制収容所に収容されることとなった。
更に奥に進むと中庭がある。ここは見せしめの為の処刑も行なわれたところで小要塞の最奥地にあたる。
テレジーン小要塞🇨🇿(Památník Terezín – Malá pevnost)
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) February 17, 2020
ナチス時代は収容所として秘密警察の刑務所として使われていた。多くの抵抗グループのメンバーがここに収容されており虐殺や死者も多数。赤十字の監視団を誤魔化す設備も現存しやるせない。埃っぽく、秋時分にして酷く寒い、当時は状況を憂う。 pic.twitter.com/FRxXmdS4dK
● テレジーンでの食事 レストラン Atypik
大要塞の周囲を巡った後、少々重い気分のまま城壁内に戻り、お昼ご飯をいただくことにした。お店などそもそも少ない町なのだが、とてもよさそうな食堂がある。現場仕事の方々が多く、史跡の重さはどこ吹く風。店には仕事の合間の食事を楽しみにしている人がたくさん集っていた。これなら、こちらも一息つける。
看板にも定食メニューが並び、美味しそうだ。しかし、お昼ご飯の選択で大失敗、スープはZelná キャベツ とあり、芋とキャベツのトマトスープを美味しく食べた。
しかし、メインの注文がいけなかった。「Bramborové šišky s mákem」(ケシの実とジャガイモ) とメニューにあり、なんだろうと頼んだところ、ニョッキに砂糖とケシの実をまぶしたデザートのようなものが出てきてしまったのだ。しかも分量は300グラムとあり、とほうもない量。美味しいのだが、甘い上に単調なお味で、せっかくの機会をもったいないことをした。
向かいの方のグラーシェはとても美味しそうだったし、皆さん、お皿に額を押しつけるように食べていらっしゃる。まあ、これもチェコならではのメニューなのだろうから良しとしよう。
レストラン Atypik🇨🇿@テレジーン
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) February 23, 2020
この街の重い気分を紛らわせてくれる雰囲気良い定食屋。されど注文に失敗しデザートのようなプレートが。砂糖とケシの実をまぶした300gもあるニョッキ。
お芋とキャベツのトマトスープは旨く、向かいの方のグラーシェはとても美味しそうでいやはや残念。 pic.twitter.com/aCGz2e4DBD