・リッカルド・ムーティ(Riccardo Muti)さんを聴く旅
前回からの続き、パリのラジオ・フランスでムーティさんの指揮する音楽を聴いたが、そこにいたるまで、こんな顛末があった。
2016年2月シカゴ交響楽団を振るムーティさんを楽しみに渡米するも、腰を痛められて降板。シカゴ響はタイトな日程を組んでくれるので1週間ばかり滞在すると、2つのプログラムをムーティ指揮で聴ける予定だったのに、ちょっと残念だった。ただ、気持的にはガッカリではなく、「残念」程度。それは、その後間もなく亡くなってしまったロジェストヴェンスキーさんが代打に立ち、見事な公演だったのと、もう一公演の代打が大ファンのホーネックさんが振ることになったからだった。
シカゴ響 ムーティ降板でロジェストヴェンスキー。演目はリゲティから十八番のシベリウスへ、嬉しいw。白眉はチャイコの弦セレ、渾身の一曲、出だしでエイと声だし付、超スローなテンポにシカゴ響が旋律をひっぱり音がホールにジンワリにじむ。お爺指揮者の演奏は、こうでなくちゃ。万雷の拍手で完。
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) February 17, 2016
これからシカゴ響。今日のムーティの代打はホーネック、ロンドンで同じくコリン・ディビスの代打を聴いて以来のファン。とにかく解釈が面白いし技量もある。演目はチャイ6にレスピーギで彼にピッタリ。ワクワクが止まらない。 pic.twitter.com/02GQ2XOS5a
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) February 19, 2016
・念願のムーティ指揮をパリで
そして、数週間後に米国から欧州に渡った際、パリで見事復帰を果たしたムーティに出会うことができた。フランス国立管弦楽団(Orchestre national de France)との公演で、ムーティは今やこのオーケストラとも深い仲、パリのオーディトリアムに颯爽と登場してくれた際には、とても嬉しかった。そして、ムーティを聴くのは90年代のヴェルディの椿姫/スカラ座の来日を聴いて以来だったので、妙に懐かしく、その音楽作りにも期待が募る。また、座席数の少ないこのホールでムーティ様を間近で拝めるのもちょっとした贅沢気分であった。
ムーティ/フランス国立管@ラジオフランス シカゴでは惜しくもキャンセルであったが、今回はハツラツ登場。シューマンピアノ協奏曲は細やかな指示でピアニストを最大限サポートする手堅い演奏。そして、フランスのオケから、かなり重く、深遠な響きを引き出していた。
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) March 25, 2016
ムーティ/フランス国立管@ラジオフランス シュトラウス「イタリアから」は、2度とこんな演奏は聴けないと思う名演。熱の入った指揮にフランス国立管が見事応える。最終章のエンディング、一呼吸しっかり休んで、いきなり突き刺すような指揮にクイックに反応し、稲妻のような音を奏でて見事に幕。
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) March 25, 2016
ちなみに、この「イタリアから」についてはムーティの自伝『はじめに音楽 それから言葉 』に面白エピソードがある。ナポリのオーケストラで彼がこの曲を振った時、ドイツ語でかかれた3楽章のタイトル「ソレントの浜辺にて」をイタリア人相手に説明すると「いつソレントに浜辺があったんだい?」とやり込められてしまったという。(実際には、ソレントに浜辺はない)
・ムーティによる傑作自伝『はじめに音楽 それから言葉』
このムーティの70歳を機に出版した自伝『はじめに音楽 それから言葉 』には、このような面白く興味深い話が満載だ。ムーティはその容姿や口調から生真面目すぎるような方と思われるが、ユーモラスな記述も多い。彼の指揮棒のように淡々と書き連ねているのだけど、その内容がとても機知に富んでいるのだ。
まず興味深く、驚いたのが、彼は傲慢とか尊大と言われていることに、かなり自覚的であり、本人としても非常に気にしているような印象を受けたことである。自分が傲慢に見えるのは、かつての南イタリア特有の暴力的で厳しい教育によるものだと述べて「正当化しておきたい」とまで言った上に、実は自分は内気な性格なのだ、とまでのたまう(笑)。
私はずっと「いばりんぼムーティ」と思っていたので、この辺りからこの本に食いついてしまった。実際彼の笑顔のない指揮姿、そして終演後に活躍した奏者を称える際の「尊大」な指名の仕方(笑)、指揮棒や指でピッと奏者を指すその振る舞いはとても褒めているようには見えない。どこかの独裁者が説教前に「お前、立て」と言っているかのよう(笑)。それ故、奏者も称賛されているのに、どこか笑顔が少ない。
この自伝にある立身出世前の苦労時代の話も面白い、安下宿で1日中歌い続ける隣人に迷惑する話や母からもらったボルサリーノに決別する瞬間、真面目に書いていらっしゃるのだが、どこかユーモラスな記述が多い。
圧巻なのは音楽院の楽長だったニーノ・ロータとの出会い。彼がムーティを見いだし支援していた。ムーティの結婚式の二次会では、ニーノ・ロータと大ピアニストのリヒテルが共にピアノに向かっての曲当てクイズ合戦をしたことが記されている。佳境に入ると双方が博学のために、滅多に聴かないような珍しい曲ばかりなってしまったという。凄まじい景色(笑)。
リヒテルもムーティに大きな影響を与えた一人のようだ。暗譜をして指揮する若きムーティに対して「なぜ暗譜をするのですか?目は使わないのですか?」と。それ以来、暗譜はしているが譜面を置くようにしており、演奏時に譜面を見ながら指揮をすると新たな発見があるとも。
そして、ムーティのニーノ・ロータへの傾倒ぶりも強い。ロータは作品スタイルから誤解を受けていると擁護し、アルバン・ベルクのオペラを教えてもらったのも彼からだし、彼の曲にはストラヴィンスキーやプロコフィエフ、バルトークの手法がうかがえるとしている。ロータは時代の流行に乗らず、前衛的な音楽に走らなかっただけで、自分が望めば前衛的な作曲家になったかもしれないとまで書いている。
また、ムーティによるロータの音楽の演奏はとても美しい。極度に麗しく、しっとり艶っぽい、彼が演奏するクラシック音楽とは一線を画する演奏と感じるのは私だけだろうか。ここまで切なく潤いをもって響くゴッドファーザーのテーマは類をみないし、8 1/2なんかは、あのムーティ様がニヤニヤされながら指揮しているのではないかと勘ぐってしまう。自伝を読むとロータのことをムーティはロータ先生と呼び、尊敬の念を隠さない。そして、音楽の道を開いてくれた人そのもの、ロータへの親愛の情が、そのような演奏をさせるのでないだろうか。
スカラ座でのラ・トラヴィアータ公演、オーケストラがストライキをし、公演の危機の際にムーティ自らがピアノを弾いて乗り切った話。これが禍根を残し、オーケストラと不仲になったとムーティは見ている。真実は定かではないが、辞める際にオーケストラ側からのムーティへの非難がかなりキツかったと記憶している。
その時に救いの手を差し伸べたのがウィーン・フィルやシカゴ交響楽団、そして彼らとの蜜月時代。ヴェルディの名手がスカラ座と不仲になってしまったのは残念だが、こうして世界のオーケストラとのたくさんの共演が楽しめるのは、ファンとしては嬉しい部分もある。
最後に、ナポリ生まれだが、ナポリ育ちではないムーティ。これにも面白い話がある。
出産間近の母が戦時中にも関わらず汽車に乗って、わざわざ旦那と過ごすモルフェッタから出産時だけナポリに帰省して産んだ、なのでムーティはナポリ生まれ。他の兄弟5人ともそのような形をとったらしい。
その母がわざわざナポリで出産をした理由がふるっている。ムーティの母曰く『もしもいつかお前たちが、アメリカだがどこだかわからないけれど、世界を回るようになったとして、どこで生まれたかと聞かれた時に「ナポリ」と答えれば皆に尊敬の目で見られるからね』と。実際にそうなったムーティ、その母のなんたる先見の明。