東西ベルリン動物園大戦争を読む① / 冷戦が生んだ2つの動物園

東西ベルリン動物園大戦争を読む① / 冷戦が生んだ2つの動物園

旅先の町で滞在日程に余裕があるときは、必ず動物園に行くことにしている。動物園は家族連れなども多く、そこを訪れる人々を通して、その町に暮らす人々のことを間接的に知ることができる。また、動物園の雰囲気や飼育方法、展示キャプションなどからは、その国のお国柄を知ることもできる。
かなり昔にNewsweekが特集した「世界の動物園&水族館」が、今でも旅のバイブルとなっている。これを眺めながら、次はどこの動物園に行けるかと楽しみにしている。
今回はさらに、『東西ベルリン動物園大戦争』というたいへん面白い本を読んだ。ベルリンには、冷戦時代の東西分断の名残を持つ2つの動物園がある。本を読んだことをきっかけに、ベルリン動物園とティアパーク・ベルリンを訪れてみた。今回は、この2つの動物園の歴史と、そこから見えてくるベルリンの物語をまとめてみた。
東の動物学者ダーテと西の獣医クロース/2人の競い合う園長
戦後のベルリン動物園を救った女性園長カタリーナ・ハインロート
東ベルリンにティアパーク・ベルリンが誕生/2つの動物園の関係

○ 東の動物学者ダーテと西の獣医クロース/2人の競い合う園長

なんでも2つあるのがベルリンである。当然、動物園も2つある。これは、ベルリンが東西に分かれていた時代の名残である。だから、立派なオペラハウスも2つあれば、大きな図書館も2つある。美術館群も、2つの場所に分かれて存在している。

なかでも、冷戦時代の動物園をめぐる東西競争は、熾烈かつドラマティックであった。冷戦時代、東ベルリンの動物園園長は、世界的な動物学者として権威のある人物であった。対する西ベルリンの園長は獣医で権威では劣るものの、マーケティングには非常に長けていた。「歩いている人間の靴下を脱がせ、ポケットから寄付をむしりとる」と言われるほどの逸材であった。

こうした背景から、東の園長は西の園長を見下し、西の園長は資金力を背景に東の動物園と張り合った。双方が強烈な対抗意識を抱いて競い合った様子が、『東西ベルリン動物園大戦争』(ヤン・モーンハウプト著)には描かれている。

当時は、動物学者に比べて獣医が軽視される傾向にあったようである。そのため、西ベルリンの園長となった若きクロースには、年齢以外にも負い目があったのだろう。ドイツの園長たちのバックボーンは現在(2009年時点)でも動物学者35名、獣医18名、経営者16名という構成である。やはり、獣医出身者はキャリアの面では劣勢なのである。
(ちなみに、この本の解説によれば、日本の動物園園長は獣医がほとんどだという。この本には、章ごとに日本人訳者によるちょっとした解説が付されている。そこでは日本の事例なども紹介されており、動物園について理解するうえでも役立つ内容になっている。)

さらには、この東西の動物園の園長たちは、飼育する動物の種類までも競うようになる。「そっちがそれを飼育するのなら、こっちはこれを飼う!」と、双方とも見栄を張り合い、時には嫌みたっぷりに相手の動物園の動物をこき下ろすまでになってしまう。

双方とも動物収集に目がないものだから、競争に歯止めが利かなくなり、飼育施設の準備もそっちのけで動物を購入してしまうことがあった。古い貨車を飼育施設として代用したり、飼育施設を準備できず、子象を園内に放し飼いにしたりするほどだった。

この時、飼育動物を購入する際の東ベルリンの園長ダーテの権限の大きさをうらやんだ西ベルリンの園長クロースは「私がトラックで乗りつけると、ダーテは貨車一両を用意してくる」と愚痴をこぼしている。双方とも資金には限界があったはずである。しかも、戦後の「動物よりも、まずは人間への援助を」という時代である。この競争は、かなり滑稽なものに思える。

西側のベルリン動物園の園長ハインツ=ゲオルク・クロースは、獣医ながらマーケティングと組織化に長けており、いかにも資本主義らしい人物である。かたや東側のティアパーク・ベルリンの園長ハインリヒ・ダーテは、世界的な動物学者で国民にも慕われている。東側のすべての動物園に目を行き届かせているところも、いかにも社会主義らしく感じられる。

ハインリヒ・ダーテ(写真右) ハインツ=ゲオルク・クロース(写真左)@パネル展示「動物園の物語」
ハインリヒ・ダーテ(写真右) ハインツ=ゲオルク・クロース(写真左)@パネル展示「動物園の物語」

おそらく、似たような話が当時の東西ベルリンにはたくさんあって、歌劇場やオーケストラにも同様の東西対抗意識があったのではないかと勘ぐってしまう。
ただし、動物園の競争において、主役はあくまでも動物である。諍いは間に動物を挟んでの争いとなるので凡人にも争いの構造はわかりやすい。そして、ドイツでは動物園とそこにいる動物たちが国民にひときわ愛されている。だからこそ、この東西の競い合いに拍車がかかったのも必然だったのだろう。
つまり、国民にとって親しみのある動物園の園長たちだからこそ、当の園長たちが互いに力んで張り合っている姿が滑稽この上ないし、コメディっぽくもみえる。動物を挟んでのこの東西戦争は、本物の冷戦とは違って読み手もやや穏やかにその争いを見守ることができる。

ベルリン動物園(Zoologischer Garten Berlin)の園内地図
ベルリン動物園(Zoologischer Garten Berlin)の園内地図

しかし、そうはいっても、東西は壁一枚で隔てられており、経済的に東西双方が苦しんでいた時期のことでもある。ベルリン封鎖などもあり、動物園の機能を利用した西側への亡命劇も本書には登場する。
独特の冷戦時代の重い空気も感じられる。東側では、秘密警察の監視などによって、日常生活にも緊張感があった。それでも、どこかほのぼのとして感じられるのは、動物と動物園が主体となった競争だからである。

そして2人の園長は政治にも無頓着で、なにより動物が好き、家族よりも動物園が好きという変わり者である。このことが、このドラマを一層面白いものにしている。園長という立場にありながら政治的な問題などおかまいなしだし、政治家は「使えるときに使えばよい」程度に考え、東の園長も西の園長も、政治に対しては自分本位に振る舞っている。

ティアパーク・ベルリン(Tierpark Berlin)の園内地図
ティアパーク・ベルリン(Tierpark Berlin)の園内地図

東の園長は、過去にナチス党員であったことから戦後に苦労し、二度と政治には関わりたくなかったようで、秘密警察シュタージへの対応も、読んでいるこちらが不安になるほどぞんざいである。西の園長も政治に無頓着で、戦時中には苦労したにもかかわらず、親ナチスの旧園長に名誉役職を与えようとしてしまう。戦後のその時代に、当然、世間から反感を買うだろうという話であるが、親ナチスの園長が動物園に寄与したことも事実であり、西ベルリンの園長も呆れるほど政治意識の低い人物だったようである。

ベルリン動物園には歴史パネル展示「動物園の物語」がある。そこには以下のように書かれている。

ハインリヒ・ダーテは、1935年から1939年までライプツィヒ動物園で科学助手として勤務しました。終戦直後、ナチ党員であったため復職は叶わず、1950年にようやく元の職に復帰しました。
1954年には東ベルリン動物園の設立を任され、世界的に有名な動物園へと発展させました。ラジオ放送を通じて東ドイツで広く知られ、人気を博したダーテは、その専門知識を国際的に高く評価されました。

ハインツ=ゲオルク・クロースは、若い頃から様々な動物園やサーカスで動物飼育の実務経験を積んでいました。1954年、30歳にも満たない若さでオスナブリュック動物園の園長に就任し、その後(当時の園長)カタリーナ・ハインロートによってベルリン動物園の園長に指名されました。1956年から1991年まで、彼は西ベルリン動物園の運営に尽力しました。ラジオやテレビにも定期的に出演し、その功績は数々の賞によって認められています。

両者とも、地域的にも国際的にも競合する機関のトップを務めていました。動物園と動物公園はベルリン市民にとってそれぞれが住む地域において非常に重要な存在であり、そのため両者とも著名な人物となりました。友情が芽生えたわけではありません、むしろ互いの生涯の業績に対する敬意が育まれたのです。

パネル展示「動物園の物語」 @Zoologischer Garten Berlin
パネル展示「動物園の物語」 @Zoologischer Garten Berlin

○ 戦後のベルリン動物園を救った女性園長カタリーナ・ハインロート

この『東西ベルリン動物園大戦争』では、東西ベルリンの動物園の確執を描いているため、当然戦後まもなくから物語の記述が始まる。ナチスと親しい関係にあったベルリン動物園園長ルッツ・ヘックが逃亡し、責任者不在のなか、まず動物園のレストランの臨時ウェイターが、続いて動物園の運転手の一人が、ベルリン随一の動物園の園長代理に任命された。

その後、動物園が再び専門家の手によって運営されるようになったのは、博士号を持つ動物学者カタリーナ・ハインロートが1945年に園長に任命されてからである。ベルリンの動物園が2つに分かれる前、長い歴史を持つベルリン動物園は、一人の女性によって蘇ったのである。

カタリーナ・ハインロート(1897-1989)1955年にボルネオ島からブタオザル「プッツィ」を連れて動物輸送から戻ってきた時の写真 @パネル展示「動物園の物語」
カタリーナ・ハインロート(1897-1989)1955年にボルネオ島からブタオザル「プッツィ」を連れて動物輸送から戻ってきた時の写真 @パネル展示「動物園の物語」

彼女は、水族館の館長を務めていたオスカー・ハインロートの妻であり、夫の研究にも協力していた。終戦直前には、瀕死の重傷を負った夫を最後まで看病している。このときの体験は壮絶である。ベルリン最後の攻防戦のなか、彼女は瀕死の夫や負傷者、動物を守るために動物園内にとどまり、突入してきたソ連赤軍から性的暴行まで受けてしまう。

そして、夫は彼女が園長に就任するわずか数週間前に亡くなった。この初の女性園長、カタリーナ・ハインロートの奮闘が、本書の最初の見せ場になっている。ブロツワフ出身のこの女性学者が奮闘する姿は、実に勇ましいのだ。まさにベルリンの「瓦礫の女」を具現化するような人物である。

瓦礫の女像 Trümmerfrau-Denkmal(瓦礫の女 終戦直後男手のないなかでベルリンの復興を成し遂げた女性たち)の像 @ノイケルンのハーゼンハイデ国民公園
瓦礫の女像 Trümmerfrau-Denkmal(瓦礫の女 終戦直後男手のないなかでベルリンの復興を成し遂げた女性たち)の像 @ノイケルンのハーゼンハイデ国民公園

パネル展示「動物園の物語」には以下のことが書かれていた。

占領・瓦礫の撤去・再建
赤軍がベルリンを制圧し、銃声が止んだ後、動物園は瓦礫の山と化していました。建物のほとんどは破壊されるか甚大な被害を受けており、かつて世界最多の種を誇ったこの動物園には、わずかな動物しか生き残っていませんでした。
職員の多くは、拘束されるか、死亡、あるいは行方不明となっていました。残ったのはごく少数の従業員だけでしたが、彼らは献身的に、当初は無給で、生き残った動物たちの世話を続けました。
混乱の最初の数週間が過ぎると、ベルリンの状況はわずかながら改善に向かいました。占領国側が新たな運営体制の中核となる人物を任命し始めたのです。再建に向けた動物園の暫定的な運営は、かつて動物園水族館の館長を務めた人物の未亡人、カタリーナ・ハインロートに委ねられました。

1945年5月、ベルリン動物園のソ連兵。赤軍部隊は1945年5月23日まで同動物園に駐留していました。遺体や動物の死骸の埋葬作業は、彼らの監督下で行われました。

生き残った唯一のゾウである「シアム」を眺める2人の赤軍兵士と数人のベルリン市民の姿。背景には、破壊された動物園駅 @パネル展示「動物園の物語」
生き残った唯一のゾウである「シアム」を眺める2人の赤軍兵士と数人のベルリン市民の姿。背景には、破壊された動物園駅 @パネル展示「動物園の物語」

動物園は相次ぐ空襲や砲撃で甚大な被害を受けていた。屋根も壁も壊された建屋を修繕すべく資金調達にハインロート園長は奔走し、数の減った飼育動物に対応するべく新たな動物も確保した。動物園を守るためには連合軍からの要求ですら持ち前の機知を駆使して、はねつけもした。さらにはゾウ舎などを新築し、壊滅状態だった水族館を再建する等と1957年の退任まで休む暇もなく働いた。
東側のハインリヒ・ダーテですら彼女のことを「唯一無二のカタリーナ」という愛称までつけて賛美をしている。

再建されたベルリン動物園内の水族館 @Zoologischer Garten Berlin
再建されたベルリン動物園内の水族館 @Zoologischer Garten Berlin

ただ、そんな動物園を守り、見事に立て直した彼女ですら、時代は女性リーダーを容易には認めなかった。彼女は、やがて園長の座を去らざるを得なくなる。

○ 東ベルリンにティアパーク・ベルリンが誕生/2つの動物園の関係

カタリーナ・ハインロートが退いた後を継いだのは、若くて才気走った獣医ハインツ=ゲオルク・クロースであった。彼は地方の動物園で下積みを重ねており、虎視眈々とキャリアアップを狙っていた。当然、ドイツで1番の動物園であるベルリンに赴くことは願ったりかなったりの絶好の機会である。彼に白羽の矢が立ったとき、本人も天にも昇る思いだっただろう。この就任には戦後の動物園界隈の人材不足も彼に味方した。

そんななか、獣医であるクロースは、ベルリン動物園を視察した際にキリンが病気であることを見抜く。しかし、就任直後に人気動物が死ぬことを恐れ、彼はこのことを黙っていた。できることなら、ハインロート在任中の責任にしたかったからである。姑息ではあるが、彼はこんな時点から、なかなかの策士ぶりを発揮している。

ただし、ぽっと出の若者クロースにとって、この大動物園のマネジメントは、いくらなんでも荷が重かった。その後、彼は長きにわたって多くの苦労を重ねながらベルリン動物園を自分の手中におさめていく。

一方、西ベルリンにしか動物園がない状況に、東ドイツ政府はやきもきしていた。東ベルリンに動物園がなかった当時、市民にとって動物園へ行くことは、西ベルリンへ出向く口実にもなっていたからである。劇場など他の施設は東ベルリンにも存在したが、動物園だけは西ベルリンにしかない。この市民の要望を、東ドイツ政府としても無視することはできなかったのである。そしてついに、東ドイツは東ベルリンにも動物園を設立することを決意する。

先のベルリン動物園にあったパネル展示「動物園の物語」では、旧東ベルリンのティアパーク・ベルリンにも触れており、開園当時について以下の記述があった。

1953年の時点で、東ベルリンには独自の動物園を建設する計画がありました。しかし、建設には根強い反対意見もありました。政治的に分断されてはいたものの、当時はまだ都市間の往来が可能であり、東ベルリン市民は西ベルリンの動物園を訪れることができたからです。
既存の動物園が経営難に苦しむ中、ドイツ動物園長協会でさえ、新たな動物園の建設には反対の声を上げていました。それでも東ドイツ政権は、独自の動物園を持つことに固執しました。

1955年7月2日、フリードリヒスフェルデ宮殿の庭園跡地で動物園の開園式が挙行され、東ドイツのヴィルヘルム・ピーク大統領も出席しましたが、この式典は多分にプロパガンダの要素を含んだものでした。その後、政府は動物公園とその園長を支援するようになりました。

東ドイツ政府だけでなく、地元の人々の熱意もまた、この動物公園を支える力となりました。何千人もの東ベルリン市民が、「自分たちの」動物園を建設するためにボランティアとして協力したのです。

1955年7月2日のフリードリヒスフェルデ動物公園(ティアパーク)開園式 @パネル展示「動物園の物語」
1955年7月2日のフリードリヒスフェルデ動物公園(ティアパーク)開園式 @パネル展示「動物園の物語」
1958年の国家建設隊のボランティアが土を掘り起こすボランティアたちの様子 @パネル展示「動物園の物語」
1958年の国家建設隊のボランティアが土を掘り起こすボランティアたちの様子 @パネル展示「動物園の物語」

このとき、東ベルリンの動物園園長に就任したのが、学者として権威も評判も高いダーテであった。彼は戦時中、ナチスとの関わりによって散々な目に遭ったため、驚いたことに、共産党政権とも距離を取った。強権的な体制で知られる東ドイツで、このような態度を取ることが可能だったことにも驚かされる。不器用な学者肌に見えつつも、よほど戦時中に苦労したためか、ダーテはかなりの世渡り上手だったのではないかと思えてくる。

東ドイツで暗躍した秘密警察シュタージが、どうも動物園には気を許していたように見えるのも興味深い。人気のある動物園だけに、国民の目を気にしていたのかもしれない。ダーテ本人に対しても、動物園に対しても、対応が甘いのである。東西を比較的自由に行き来するハインリヒ・ダーテを監視しながらも、シュタージは、人気者だった白熊へ獣舎を寄贈したりもする。

こうして、東のダーテと西のクロースによって、東西ベルリンの動物園の争いが勃発するのだが、読み進めていくと、東西の協力関係も目につくようになる。1968年以降、東ドイツの動物園園長は国からの命令で全ドイツ動物園連盟から脱退しなくてはならなくなった。しかし、国際シンポジウムを隠れ蓑にして、東西の園長たちは情報交換をし続けていた。そして、手紙のやり取りや相互訪問も続けており、ベルリンの壁を越えた友好関係が築かれていた。

東西ベルリンの様相を見ていると、設備を含めて立派に発展していくのは、やはり西ベルリンの動物園である。ところが、応援したくなるのは、意外にも東ベルリンのティアパークである。学者肌で動物オタクの園長。そして、ひたむきに動物園を応援するたくさんの市民。しかも東ドイツの財政は常に苦しく、予算不足にもいつも悩まされていた。
それでも、けなげに動物園を維持し、発展させていく姿には、感動を覚えるのである。
(次回に続く)

そして、苦境にあっても、東西それぞれのベルリン市民が動物園に寄せた奉仕と愛情も、尋常ではなかったことがわかる。西ベルリンでは、終戦直後の食糧難の時代に、枯渇した飼料を市民が提供したのである。東ベルリンでは、あの広大な動物園の敷地整備に、一般市民が進んで協力した。

ドイツ / ベルリン

<詳細情報>
・ベルリン動物園(Zoologischer Garten Berlin)
Hardenbergpl. 8, 10787 Berlin
・ティアパーク・ベルリン(Tierpark Berlin)
Am Tierpark 125, 10319 Berlin-Bezirk Lichtenberg
・『東西ベルリン動物園大戦争』(ヤン・モーンハウプト著)-参考文献