ゲルリッツの歴史博物館(Kulturhistorisches Museum Görlitz)についてはガイドブックの記載がほとんどない。しかし、街のあちこちに分館があり、この街を訪れたらシレジア博物館と共に必見の博物館である。
このゲルリッツの近郊はスラブとゲルマンが拮抗していた地域で、それ故に歴史も面白く、ゲルリッツの発展はドイツの中世都市の形成史そのもの、特定の時代に偏らない網羅的な展示も好ましい。
そして、本の背表紙が装飾であると実用性重視ながら美しい惚れ惚れするようなオーバーラウジッツ学術図書館(Oberlausitzische Bibliothek der Wissenschaften)もゲルリッツ歴史博物館の分館バロックハウス ナイス通り30 内にあり、ここは市の美術館も兼ねている。
また、シレジア博物館(Silesian Museum Schlesisches Museum zu Görlitz)はドイツの目線でシレジアを学べる絶好の博物館。今はそのほとんどがポーランド領シロンスクとなったシレジア地方やドイツの香りが今も残るブレスラウ(ヴロツワフ)の歴史を豊富な工芸品やパネル説明などの展示物でゆっくり観ることができる。
● ゲルリッツ歴史博物館
● オーバーラウジッツ学術図書館
● ゲルリッツ歴史博物館 バロックハウス ナイス通り30
● シレジア博物館
● ゲルリッツ歴史博物館(historic museum of Görlitz / Kulturhistorisches Museum Görlitz / Museumsverwaltung)
最初に訪れたのはゲルリッツ歴史博物館、いつも通り、まずは地元の歴史から巡るのが街巡りの王道である。入館料の支払でクレジットカードが使えず、非常時用として持っていたユーロ札にて支払った。ポーランドからの日帰り旅だったのでユーロの持ち合わせが少なく不安に感じたが、この後の博物館すべてにおいてクレジットカード使用不可であった。どこも現金払いくせに、ゲルリッツの街中にはATMが少なく、最後に駐車場代を支払う為にゲルリッツ駅のATMで現金を下ろすことになってしまった。
ゲルリッツ歴史博物館についてはガイドブックの記載がほとんどない。シレジア博物館やオーバーラウジッツ学術図書館の陰に隠れて取り上げられること自体が少ないようだ。しかし、訪れてみると、展示も見やすく網羅的でとても価値ある博物館だった。こういった郷土資料館的な博物館は得意分野のみを重点的に扱う博物館も多く、網羅的に郷土史を学べる展示というのは実は多くはない。しかし、こちらは懇切丁寧に時代をおって街の発展史を眺めることができる。
入館すると親切な高齢スタッフの方が館内の導線を途中まで案内してくださる。地階はゲルリッツ近辺の古代のブースで石器時代から始まり、コンパクトかつ丁寧に歴史が綴られるので素人でも楽しめる。
<古代>
ゲルリッツ近辺は石器時代に、マンモスからトナカイ、バイソンまでが生息する豊かな地帯だったようだ。そして、人々が営みを始め、農耕文化、定住生活への移り変わりに伴って、ゲルリッツでは農耕民族が定住するようになり、狩猟生活をする民は上ルサティア(シレジア西隣-Oberlausitz-)の周辺地域に追いやられていった。そして、紀元前1,300年頃には上ルサティアの人口は急速に増加し、青銅器時代から鉄器時代を迎える。紀元前800年に最初の鉄がカルパティア地方( Carpathian region)からもたらされたが、まだ不純物を取り除く精錬技術は知られていなかったとある。
西暦200年頃、ルーサティア地方にはゲルマン系の部族が入植し始め、ゲルリッツ西部のカーメンツ(Kamenz)とバウツェン(Bautzen)の間の肥沃な土地、そしてナイセ川の両側のゲルリッツ周辺に定住した。既に葬儀や埋葬などの風習がしっかりあったと言う。
700年頃になると最初のスラブ部族が移住してくる。スラブ部族系のミルツェン人(Milceni)と呼ばれるソルブ人(Sorbs)の先祖が、西のプルスニッツ(Pulsnitz)と東のクフィサ川(Kwisa)の間の肥沃な土地に定住した。
ポーランドを含めて、この辺りを旅すると、ヴェンド人(Wends / Wendenr)と呼ばれるスラヴ人の話がたくさん出てくる。カシューブ人(Kashubians)やソルブ人もその1種らしい。この地域はゲルマンとスラブが拮抗する地帯だったのだろう。この辺の歴史は弱いだけにイメージしずらいが、とても勉強になった。
<中世>
中世のブースでは、ゲルリッツ村(Goreliz)からゲルリッツ町へ変遷が説明される、1071年の証書の記録で初めてゲルリッツ村が言及されたとある。最初のゲルリッツ村は旧市街にあたる、Lower Market Squareとザンクト・ペテルス教会(Sts. Peter and Paul Church Pfarrkirche)の間だったようだ。この北部(Nikolaivorstadt)に1150年頃商人が入植し、スラブ人とドイツ人の農民が集落を形成し、森林を伐採し、畑を耕した。更に職人と商人が増えて、1200年から成長し始め、徐々に都市の姿になってくる。1303年に領主のヘルマン・フォン・ブランデンブルク(Hermann von Brandenburg)からマクデブルク権(交易権や自治権)を与えられてから、急速な経済発展を成し遂げたと言う。まさに中世ヨーロッパの都市の形成史そのもの。
<近現代>
この博物館は近現代史も充実している。「ワイマール共和国のゲルリッツ」というブースが興味深かった。ワイマール時代は 多様な文化、科学発展、余暇の拡がりなど良い面が強調されるが、経済困難、高失業率、政治的混乱がありゲルリッツもそれに巻き込まれたとある。インフレにより年金受給者の給付も減り、失業者も増え、市の財政を圧迫したらしい。
これを救ったのが ゲルリッツ市の面積の広さだったと言う。近隣地を合併し公共住宅を建て住宅危機をしのいだらしい。
そして、1932年7月ドイツ国会選挙でナチスが大躍進すると、ブルジョアの民主主義者たちは政権や司法関係のポストから降ろされる。そして、ユダヤ人への弾圧も、ここゲルリッツで始まる。
また、ナチスによるドイツの再軍備によって、ゲルリッツの工場は国と契約することになり、戦時含めて兵器生産と強制労働者の使役による莫大な利益を得ることになった。
ポグロム(ユダヤ人の迫害)もあった。1933年3月、ナチス突撃隊はユダヤ人弁護士とビジネスマンに屈辱的な行進を強要し、すべてのユダヤ人に対してスポーツ、芸術、文化、退役軍人の活動を禁止した。また、彼らは市の要職から外され、ユダヤ人の作品は図書館から撤去された。
1933年にゲルリッツに住んでいた約400人のユダヤ人の半分は海外に避難し、避難できなかった人は強制労働収容所に送られ、少なくとも146人が亡くなったと言う。
ナチス政権がゲルリッツを掌握した直後、ドイツ共産党(KPD)およびドイツ社会民主党(SPD)はゲルリッツレシュヴィッツ(現在のヴァインヒューベル )にある突撃隊の設置した収容所に投獄された。そのような状況下でも彼らは抵抗を続け、チラシの配布をし、亡命者との連絡をとり抵抗グループをつくった。しかし、1937年には更に大きな取り締まりがあり、彼らのほとんどは極刑に処されることになる。
ドイツの再武装化はいたるところで進み、駐屯地がゲルリッツにもできる。戦争勃発前にも関わらず空襲避難訓練まで行なわれ、ゲルリッツはこうして戦争に巻き込まれていくことになる。
初戦でのドイツ軍の勝利は歓喜で迎えられた。しかし、男性はドイツ国防軍に徴兵され、女性と外国人強制労働者が工場の仕事を引き継ぐことになる。また、捕虜とユダヤ人を初めとする民間人の強制労働者は安価な労働力として戦争の原動力になった(隣町のズゴジェレツにあるゲルリッツ捕虜収容所 Stalag VIIIもここで登場してくる)。
ゲルリッツでもっとも戦時物資を供給した工場は重機や鉄道車両の製造工場WUMAG(Waggon- und Maschinenbau Görlitz)とRichard Raupachのエンジン工場であり、ここでは1944年には労働力の約半分が捕虜、強制収容所の収容者、民間の強制労働者で占められていた。しかもドイツ国防軍の労働者派遣の手数料は売上の90%を占めていたという。
戦争が激化するにつれて、貴重な文化遺産を避難させたり、強制労働者が町を守る為のバリケードを築いたりするも、1945年2月にソビエト軍が町に迫り、ドイツ降伏発表後の5月8日にゲルリッツは占領された。戦争の結果、ゲルリッツの男性の少なくとも2,500人が家に戻ることはなかった。また、1950年に約100,000人いた人口は戦後減り続け、1970年には87,000人、1985年には79,000人となっていく。
戦後は社会主義の圧政に苦しみつつ、経済再建と発展もあった。1953年6月17日東ベルリン暴動を契機にゲルリッツも社会主義の圧政に反発し、1989年になるとプロテスタント教会の下で自由選挙を求める声がたかまり、同年12月にドイツ再統一の気運が実を結ぶところとなった。
現在のゲルリッツには平和の象徴となる橋がある。2004年にナイセ川で向かい合ったドイツの町ゲルリッツとポーランドの町ズゴジェレツを結ぶ歩道橋(Most staromiejski Zgorzelec / Altstadtbrücke)がそれである。
ドイツの統一ののちに、ゲルリッツはヨーロッパ統合の象徴とも言える一歩を踏み出し、2つの国にまたがった町の統合すら視野にいれている。
ゲルリッツ歴史博物館🇩🇪 @ゲルリッツ
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) April 20, 2020
日本のガイドブックに記載はないが、展示も見やすく価値ある博物館。郷土資料館は得意分野に展示が偏ることも多いが、ここは網羅的で説明書きも詳しい。とある街の古代から中世~現代までの発展史を学べ、ひとつのドイツ史にもなっている。まずはの訪問をお勧め。 pic.twitter.com/Tj0LtIZ1H7
● オーバーラウジッツ学術図書館(Oberlausitzische Bibliothek der Wissenschaften)
ゲルリッツには1804年に建てられたとても美しい図書館があり、そこはゲルリッツ歴史博物館の分館も兼ねている。博物館に入ると、例によって受付の方が話好きで細かな説明を入館前にしてくださる。そして片言の日本語までお話になられていた(笑)。チケットを買う際に、歴史博物館(本館)とコンビチケットがあるがどうする?と尋ねられ、「今、歴史博物館には行ってきたばかりだ」と返答をすると、歴史博物館の半券も確認せずに承知したと割安のコンビチケットを売ってくださった。
3階建ての館内の見学者は自分一人しかいないようで、スタッフが遠巻きに着いてきてくださり、先々でドアを開けてくださる。そして、館内を迷いそうになると裏からひょっこり現れ「こっちよ」と道順を示してくださる。おかげで、入り組んだ建物なのに、順調に見学することができた。
こちらの美しい図書館ホールは、 ハレ(Halle)にあるフランケ財団図書館( 1728年建立)などをモデルにしており1804年に建てられた。バロック様式の劇場建築に基づいており舞台セットのようなアーチを備えている。また、実用性を重視しているので豪華な装飾はなく、 本の背表紙こそが唯一の装飾であるとのこと。
蔵書も充実しており900年前からのものがあると言う、最も古い巻物はローマの歴史家ガイウス・サッルスティウス・クリスプスによるテキストを含んだ11世紀の試写原稿とのこと。最初期の活字印刷物であるインキュナブラの精巧に装飾された頭文字など、印刷技術と芸術性の高さには目を見張る。当時の書籍の豪華な装丁は、本を飾るだけに留まらず、所有者の名声にもつながったらしい。
他にもゲルリッツで印刷された最古の本やベラルーシ語で活字印刷された最初の本、いわゆるスカリーナ聖書(Skaryna Bible)が収蔵されている。そして、ルサティア(ラウジッツ)、シレジア、ボヘミア、ザクセンの重要な年代記に関する世界最大のコレクションをここは有している。
オーバーラウジッツ学術図書館🇩🇪 @ゲルリッツ
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) April 26, 2020
バロック様式の劇場建築に基づき、舞台のようなアーチを備えた図書室。実用性を重視して装飾は本の背表紙のみ。
最初期の活字印刷物の精巧に装飾された頭文字など、展示書籍群から印刷技術と芸術性の高さには目を見張る。当時、書籍は所有=名声だった。 pic.twitter.com/sRMvHtz1Md
● ゲルリッツ歴史博物館 バロックハウス ナイス通り30(Barockhaus Neißstraße 30 Kulturhistorisches Museum Görlitz)
隣接するゲルリッツ歴史博物館 バロックハウス ナイス通り30のほうは、ゲルリッツ南のツィッタウ(Zittau)の織物問屋ヨハン・クリスチャン・アマイスが1729年に建てたバロック様式の屋敷(タウンハウス)。その建物を1951年から博物館として使用している。
1 階は当時の屋敷の様子やそれに伴う展示がメインで素晴らしい調度品と建物が見学できる。
30年戦争の混乱の後、上ルサティアは17世紀から18世紀にかけて、ダマスク織とリネン産業が発展し、これらの旺盛な貿易活動で好景気に恵まれた。ゲルリッツは上ルサティアの経済の中心地としての役割を担うことになる。3回ほど街は大火にみまわれたが、損傷した建物はより近代的なバロック様式に改築されていったらしい。そして、この好景気のおかげで商人や職人が絵画や彫刻を自宅やオフィスに飾る為、アーティストは作品製作の機会に恵まれたようだ。そういったバロックの職人技をこの博物館では堪能できる。
博物館2階は1800年頃の芸術と科学をテーマにしており、実験器具や音楽、絵画などの展示が占める。
ゲルリッツ歴史博物館 バロックハウス ナイス通り30🇩🇪
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) May 2, 2020
豪商の織物問屋が1729年に建てたバロック様式の屋敷を博物館に。30年戦争後、ダマスク織とリネン産業の発展で街は好景気。商人や職人が絵画や彫刻を自宅やオフィスに飾り、バロックの職人技が開花。これら工芸品と科学をテーマにし展示が並ぶ。 pic.twitter.com/FCaj41Rxsn
● シレジア博物館(Silesian Museum Schlesisches Museum zu Görlitz)
そして、今回の旅のテーマであるシレジア博物館(Silesian Museum Schlesisches Museum zu Görlitz)へ。ここはかつてビール醸造所だったらしい、Untermarkt(Lower Market Square)に面した立派な建物だ。
シレジア博物館の挨拶文にはこうある。
「波乱に満ちた歴史と多様な文化を持ち、ヨーロッパの中心の魅力的な地域にあなたを招待します。」
まさに波乱かつ多様性のある地帯であるシレジア。博物館のコンセプトとして、シレジアの伝統はドイツ人、ポーランド人、チェコ人の共通の遺産と位置づけ、シレジアの過去から未来にかけて網羅的に紹介している。そして、この地域は影響力を及ぼしていたのは、ハプスブルク家に続いてプロイセンだったので、展示品を見ているとスラブと言うよりもドイツらしさを濃く感じる。
このシレジアにに特化した博物館ながら展示内容はシレジアの中心地であったブレスラウ(ヴロツワフ)の説明が圧倒的に多い。ヴロツワフは当時芸術と科学で注目され、シレジアの首都だったのだから力点を置かれるのももっともだ。また、ドイツ人の手によって築かれた町でもあるので、ドイツ人としても思い入れが深いのだろう。博物館内にはヴロツワフ市庁舎やヴロツワフ(ブレスラウ)大学の模型までもが展示されている。
また、ヴロツワフ大学の当初の建設想定画も展示されている。初期の計画では高い中央塔と側面にも塔を造る予定だったようだ。
当時、シレジアを訪れる人は皆魅了されたらしい。ゲーテが1790年にシレジアに旅行した時も自然の美しさと豊かな文化にふれ感嘆したと言う。
多様性豊かで、何世紀もドイツ語が中心言語だったが、ポーランド語、モラヴィア語、チェコ語、イディッシュ語も話されていたという。ヨーロッパ内の貿易ではシレジア地方が経由地帯となり、芸術家、詩人、科学者はヨーロッパ文化に多大な影響を及ぼした。
シレジア博物館のもう一つの目玉はシレジア各地の工芸品の収蔵である。ヴロツワフの金細工、クルコノシェ山脈の切子ガラス、プルシュクフの鮮やかなファイアンス焼き、グリヴィツェの鋳物製品、ボレスワヴィエツやワルデンブルク地方の磁器などが展示されている。
一段と目をひいたのは大きくて立派な「金銀製の鷲」。これは300年前の金細工でヴロツワフの裕福な商人が所有していた。年に1度の射撃大会の優勝トロフィーとして使われたとのこと。
また、奇妙な雄鶏の形をした銀製の容器がある。ゲームに使われたようだが、どのようなゲームなのかは皆目検討がつかない(笑)。
博物館奥の別棟では、ブレスラウのアヴァンギャルドというタイトルの特別展をやっており、これを見るとバウハウスの影響もブロツワフ(ブレスラウ)にしっかり波及していたようだ。1924年と1929年にはバウハウス関連の展示会をおこなわれ、カンディンスキー、クレーの認知も高まったとある。そして、バウハウスの教員であったオスカー・シュレマーは1929年にバウハウスを辞めてヴロツワフ美術工芸アカデミーで舞台芸術を教えている。
また、表現主義を担う若い世代のアーティストもブロツワフに現れ始める。ゲルリッツで育ったブリュッケ派の画家オットー・ミュラーの作品も展示されている。オットー・ミュラーもヴロツワフ美術工芸アカデミーで教壇にも立っていたらしい。
この中でカール・ロバート・ポール(Carl Robert Pohl / 1891-1946)の作品が印象的だった。ボレスワヴィエツで前衛作家として活動し、ノバ・スル(Nowa Sól ドイツ語Neusalz)の職業学校の校長だった方らしい。こういうローカルな人の作品に触れられるのも地方博物館の楽しみのひとつだ。
建築の紹介もこの博物館では注力されている。「1913年のヴロツワフ展」のパンフレットが展示されており、ヴロツワフで見学したばかりの世界遺産である百周年記念ホール(Hala Stulecia)や現代美術館(Four Domes Pavilion / Pawilon Czterech Kopu)の俯瞰図を見た。これらが建てられたのは1911年なので西プロイセン領土の時代、ドイツ人の設計によるものなので、こちらの博物館では思い入れも深いのだろう。
ヴロツワフの詳細情報については、こちら↓のブログ記事をご参照ください。
また、1929年にヴロツワフに造られたモダンな宅地開発の模型もある。
1927年シュトゥットガルトでヴァイセンホーフ・ジードルンクという実物モデルを使ったモダニズムの住宅展がおこなわれた。この住宅展の成功によって、ドイツ工作連盟シレジア支部は「住居と労働空間展」をブレスラウ(ヴロツワフ)で開催した。その時のジードルンク(集合住宅)の1/250の模型がこちらである。バウハウスの ヴァルター・グロピウス(Walter Gropius)によるテルテン(Törten)のジードルンクがこうして拡がっていった様を見ることができて興味深い。
Die Werkbundsiedlung auf der Ausstellung „Wohnung und Werkraum“, Breslau 1929
シレジア博物館の最後のブースは近現代史のパネルブースであった。
博物館の解説文に「長い間、シレジアのすべてがドイツの一部でした。第二次世界大戦後はほとんどがポーランドになりました。多くのドイツ人は故郷を離れなければなりませんでした。」という文言があり、シレジアへの未練たっぷりのゲルリッツの博物館。やはりドイツ側の立ち位置でのシレジア見聞であり、ドイツ人を追放した側であるポーランドでは、あまり見ることができない写真もあった。
シレジア博物館🇩🇪 @ゲルリッツ
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) May 5, 2020
かつてビール醸造所だった建物は、市庁舎横と街1番の場所にある。シレジア文化はドイツ人、ポーランド人、チェコ人の共通遺産であると掲げ、地域一帯の工芸品や中心都市ヴロツワフの展示。ややドイツ贔屓目線なのが面白い。近現代史も詳しく、地方を知るに貴重な博物館。 pic.twitter.com/6gwhOtNO1O