前回からの続き。インバカーギルには、ニュージーランドを訪れたバイク乗りが避けては通れない聖地がある。この町は世界最速のライダー、バート・マンロー(Burt Munro/1899‐1978)が暮していた町であり、彼の博物館もある。
なんとその博物館は広いホームセンター E. Hayes & Son Ltd の中。そして、この人物、速いだけでなく実にユニーク。口八丁で人から好かれ、仲間にも恵まれる。そして、1920年製のオートバイで世界記録を樹立し、これが未だに破られていないのだ。
● バート・マンロー(Burt Munro/1899‐1978)とは
● バート・マンローの博物館はなんとホームセンター内
● 映画『世界最速のインディアン』(The World’s Fastest Indian)
● 書籍『バート・マンロー スピードの神に恋した男』 ジョージ・ベッグ 著 を読む
● バート・マンロー(Burt Munro/1899‐1978)とは
バート・マンローとは、高齢にもかかわらず次々とオートバイの世界記録を塗り替えたこと、そして親しみやすいキャラクターであったことから『世界最速のインディアン』(2005)のタイトルで映画化もされた人物。ちなみに映画のタイトルにある「インディアン」とは一時代を築き、当時ハーレーと人気を二分したオートバイメーカーの名称である。
彼の乗っていたインディアンは、なんと1920年製。これを50年間一人でいじり続け、独自に改良し続けながら68歳にして、ついに単車の世界最速記録を打ち立てた。その記録は今現在も破られていない。
バート・マンローはかつてこのインバカーギルに住んでおり、高齢にもかかわらずはるばるアメリカまで船で渡りレースに参加していた。スピード記録に人生を捧げ、年齢を重ねるごとにいっそうオートバイの改造とレースにのめり込んでいった。自宅兼ガレージの小屋に一人で住み続け、雨水で生活水からパーツ制作の水までまかなって暮らしていたという。この水は熱したパーツを冷却する為にも使われ、バートを訪問した客はこの水を沸かしたお茶で、もてなされたというからたまったものではない。
こうした暮らしの中で、バート・マンローが生涯にわたって試作したパーツや故障したパーツを並べた棚がある。そこには手書きで「OFFERINGS OF THE GOD OF SPEED」(スピードの神への捧げ物)と大きな文字で書かれている。
この逸話からも相当な変わり者であったことがわかるが、人なつっこさと不屈のチャレンジ精神から多くの人から彼は愛され、助けられた。結果、70歳を過ぎるまでアメリカのボンネビルという干上がった塩湖でのレースに幾度もチャレンジする。レースのたびにニュージーランドから愛車インディアンを自ら運び、メカニックから何から何まですべて自分一人でこなすバートの姿はとても魅力的だ。
この遠征では、アメリカに上陸してからも苦労は絶えない。裕福ではない彼は毎度ボロボロの中古車をアメリカで購入し、それを自ら修理して、港で陸揚げされた競技用バイク(インディアン)をけん引してボンネビルを目指す。
● バート・マンローの博物館はなんとホームセンター内
このバート・マンローの博物館はニュージーランド南島のインバカーギルの街のど真ん中にある。バイク乗りの聖地ともなっている博物館だが、なんと E. Hayes & Son Ltd というホームセンター の店内にあるのだ。しかしながら、店の販促目当てのちゃちな展示内容ではない。パネル写真を含めて本格的なバート・マンロー関連の品々が広い店内に豊富に展示されている。
ここでは映画で使われたインディアン(本物の精巧なレプリカ)も間近に見ることができる。映画や書籍でも描かれている通り、やはり操縦席が極めて狭いこともわかった。耐熱防具を身につけると乗り込めないと書籍に記載があったがそれも頷くことができる。
そして、豊富かつレアなバート・マンロー関係のグッズが揃っており、ニュージーランド土産に最適である。それもそのはずで、この店 E. Hayes&Sonsの経営者であったノーマン・ヘイズ(Norman Hayes)はバート・マンローの友人で、流線型のボディの塗装や危険なエンジンの実験への協力など、幾度となくマンローの作業を手伝っていた。
その為、思い入れたっぷりなのであろう。ここにある展示品やオートバイも晩年のバート・マンロー本人からノーマンが直接、買い上げたものだ。
また、オーナーがモータースポーツ全般を愛しており、マンロー関連の品以外にも膨大な数の古いバイクや車が店内のあちらこちらに展示されている。その為、バイクショップと見間違えるほどの展示車両の多さなのだ。まるで車両の合間に売り物であるはずの工具が配置されているような感じで、オートバイ好きにはたまらない。
そして、バイクの後ろには車両もあり、とにかくホームセンターなのか博物館なのか、わからなくなっているのが面白い。
このE. Hayes & Sons Ltdというホームセンターの創業は1800年代後半と非常に古く、インバカーギルでの開業は1932年という。そのためか店内には古いレジスターなども展示されていたりもする。
そんな骨董品が並ぶ中で、ひときわ目立つ展示品があった。ノーマン・ヘイズ・エンジン(Norman Hayes Engine)というバートの友人でもあった経営者が製作したエンジンで、燃料タンクは圧力鍋、フロートボウルは保存瓶、トイレの貯水槽と言った具合である。動いているところを見てみたいものだ。
E. Hayes & Sons Ltd のお店は、近郊に農業関係者が多いせいか、朝の7時30分から営業と非常に堅実営業である。早朝に訪れたにもかかわらず、スタッフの方も案内上手でいろいろ説明をしてくださったのも思い出深い。
● 映画『世界最速のインディアン』
映画『世界最速のインディアン』は、名優アンソニー・ホプキンスを主人公に迎え、出色の出来映えとなった作品である。舞台がニュージーランドだけあって、役者の演技も控えめで、映像表現も物語も淡々としているが、主人公のバート・マンローがユニークすぎて、飽きさせない。アンソニー・ホプキンスも楽しみながら、このユニークな主人公を演じているようで、バートの生き写しだったと語りぐさになっているらしい。
映画の冒頭シーンでは、ガレージ兼住居の小屋が登場し、そこには例の棚があり、しっかり「OFFERINGS OF THE GOD OF SPEED」(スピードの神への捧げ物)と書かれている。映画内のこちらに並んでいるエンジンパーツは実際バートが使用していたものだそうだ。
そして、次はピストンの鋳造シーン。書籍で読むかぎり小屋の中で鋳造などできるのだろうか、とその姿を想像しがたかったが、映画ではリアルに鋳造の様子を見ることができる。そして、この高温のピストンを雨水を溜めたドラム缶で焼き入れをおこなう。更には、その水でお茶を入れる。チタン味のお茶として有名な逸話も映画ではそのまま再現されている。
脚本も実にすばらしく、穏やかなストーリー展開ながら緊張感が最後まで持続する。初老の主人公ながらロマンスがあったり、大らかなニュージーランドらしく多様性に理解があったり、と随所に工夫が凝らしてあり、語り部が子役であることも夢があってとてもよい感じだ。
終盤のボンネビルのレースシーンは、この骨董品級のオートバイで世界記録を樹立することの偉大さがよくわかる。レースに参加する他の車両は技術の粋を集めたようなマシン、バートのような旧態依然とした車両は見かけない。やはりボンネビルまで来るのだから、どのマシンもお金がかかり、最新鋭の様相だ。金魚のデザインを模したボディで、手作り感溢れるマシンなど、どこにも見当たらないのである。
そして、この映画では知恵と工夫に熱意が加わって大団円を迎える様は圧巻だ。監督によるオーディオコメンタリーも素敵なので、興味を持たれた方は是非DVDをじっくりご覧になることをお勧めする。
● バート・マンロー スピードの神に恋した男 ジョージ・ベッグ 著 を読む
映画を観て、更に興味が沸いた方には、こちらの書籍もお薦めである。特に、バイク好きで、エンジンに関心がある方なら必読の書とも言える。バートの人生のほとんどがエンジンや車体に手を加えることに費やされていることがわかり、そのエンジンへの工夫も事細かに書かれている。
バートが参加するレースはスピードレースなので、他車とコース上で競うような接戦はない。しかし、その分孤独との戦いとなる。マシンとの一体感がすべてであって、超高速で走り、狭い流線型のボディの中で、エンジントラブルや火災への不安を抱えながら、振動で揺れる車体にしがみつきながら走る。
エンジントラブルの際はクラッチを切り、感覚ひとつでバランスをとりながら操作するとある。超高速走行でのブレーキは御法度で大破を意味するし、そもそもブレーキは効かないほどのスピードである。だから、クラッチをきり、これ以上のトラブルを防ぎつつ速度を落とす。バートは長年の経験から、少しでも挙動や音がおかしいと、次にインディアンに何がおこるか正確に予測できると言う。だからギリギリのところまで記録に挑戦し、危なくなるとクラッチを切り、難の免れていたらしい。
溶けたタイヤがゴーグルに張り付き、全く前が見えない中で時速200km超で走行したという話もでてくる。こういったギリギリの命をかけてのスピードへの挑戦だったことは、本を読むことからが一番感じられた。
そして、バートの生い立ちも詳しくこの本からわかる。1930年、バートはバイクの販売員で身を立てていた。その時は不景気の最中であり、金の採掘目当ての人々がセントラル・オタゴにニュージーランド中から集ったという。その時、バートは持ち前の口八丁な話術とユーモアで、不良在庫になりそうなマシンを全て売り切ったと言う。昔から人から愛されるキャラクターは健在だったのだ。
その後も運転手などの職を転々とするが、1949年の父の死後、農場を20ヘクタールほど譲り受け、そこに家を建てるも妻が彼に愛想を尽かして出ていってしまう。娘も結婚をしていたので、農場を維持する仕事以外は辞めてしまい、バイク改造に専念するようになる。
バイク一筋の人生になってから、60歳で大事故を起し、84歳の母に心配されるなど波乱の人生が更に続く。そして、1956年 に夢であったボンネヴィルの塩平原(Bonneville Salt Flats)に視察にでかけ、翌年からボンネビルのレースに参戦し始めた。
映画では、このレース参加のあたりの話を脚色をしているが、格安の中古車をアメリカで購入し、愛車インディアンを船から荷下ろしして、この中古車で牽引しながらボンネビルに向かうのは真実だ。1957年は、1950年型シボレー・クーペ を30ドルで購入し、各地のスピード競技会を見物しながら18,000キロも走り、ボンネビルに向かったと言う。
1959年は50ドルで買った中古車の不具合を警察にとがめられると得意の口達者で免れたと言う。更にこの時には、面白い逸話がある。X-15という超音速実験機をエドワーズ空軍基地まで見に行き、勝手に基地内に入ったものだから、警備員にスパイと間違えられてしまう。そして、連行されるも対応した大佐がバイクマニアでバートのインディアンの逸話を知っており、この時から大佐とは生涯の友となってしまう。当然、バートはX15を見学させてもらい、あげくコクピットまで納まったらしい。そして、お土産に特殊合金までもらい、それを自分のバイク部品に転用までしている。
その後の渡米時も中古車1940年型のナッシュを50ドルにまけさせて買い求め、後から到着するインディアンを港に取りに行く話が載っている。その時は、インディアンが特別車両の輸入ということで高関税をかけられてしまうが、バートは税関のトップと友達になってしまい、法務官を探し、彼とも友人関係になってしまい、無償で高関税の対応を切り抜けたとある。
このボロのナッシュもよく故障した。しかし、調子のよいバートは故障の都度、街々で部品を手に入れ、修理を安価に引き受けてもらったりして、無事にボンネビルにたどり着く。そもそもが映画みたいな人生なのだ。
こんな感じのバートは話上手も手伝って、地元インバカーギルでも「ボンネヴィルの英雄」として人気者になる。恵んでもらうことを嫌がるバートは、トークや友情で恩を返し、ランチや実質的な支援をかなり受けることになって、彼の躍進は続く、という展開になる。
そして、毎年のようにボンネビルに参戦し、1967年の1000ccクラスで樹立した記録は未だに破られていない。しかも、並み居る新型車を押しのけ、1920年製の旧車でこれを成し遂げたことは、未だに語りぐさとなっている。
(次回に続く)
<<追記(2021年6月6日)>>
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