今から4,5年ほど前、本格的な夏の始まる前の今時分のことである。伊豆の松崎港にツーリングがてら1人キャンプにでかけた。ちょうど読んでいる『グローブトロッター 世界漫遊家が歩いた明治ニッポン』という本に明治の築地ホテルが全面なまこ壁だったとの記述があり、そう言えば、前回の松崎訪問では「なまこ壁」をしっかり見てこなかったし、松崎出身の有名な左官である入江長八の長八美術館にも行かずじまいであったと思い出したのがきっかけだった。
そして、松崎町観光協会にて海辺の良きキャンプ場を紹介いただき、松崎町を散策していると、ひょんなことからシベリアで抑留生活を送った方に声をかけられた。その老人からお聞かせいただいた壮絶な体験と、同じく悲惨な抑留者の実態を知った新宿の平和祈念展示資料館の展示を重ね合わせる。
● 伊豆松崎 あそび島 で手軽な1人キャンプ
● なまこ壁と伊豆の長八美術館
● 那賀川のほとりで出会ったシベリア抑留の老人の話
● シベリア抑留者の実態を伝える新宿の平和祈念展示資料館
● 伊豆松崎 あそび島 で手軽な1人キャンプ
自然の中で本をゆったり読みたくテントを持参し、あの近辺なら海を見ながらドビュッシー、山の中ならブルックナーなんかを聞いてみるか、なんてあれこれ考えていると気分も高揚してくる。Kindle を持参し、夜はテント内でシュラフ上に寝そべり、お酒片手に読書もよい。仕事の合間にぽっかり空いた平日休みの小旅行には、伊豆半島は都会からの距離もちょうど良いと、思い立ってすぐに出かけた。
しかし、まだ6月である、キャンプ場も平日はシーズンオフのところが多い。そこで、松崎に着くやいなや、松崎町観光協会へ。平日など人なんか来ないような観光協会にのんびりしたスタッフの方が2名。手持ちぶさたのせいか、とても親切である。
こちらで港に面したキャンプ場が少し前にオープンしたことを教えられ、早速キャンプ場に向かう。細く横は水面という車だと難関となる道を数十メートル走り到着すると、目の前は港。こんなキャンプ場があるのだなぁ、と感慨深い。管理人が住まわれる建物のベルを鳴らすと、「あら」といった案配で日焼けしたお姉さんが、突然の来訪にも丁寧かつサバサバと対応してくれる。「今日は誰も来ないから、どこにテントを張っても良いわよ」とのこと。港一望の絶景キャンプ場を独占である。更に地元のお得な情報をたくさんいただき、昼前から寝床を整え終えて、松崎町散策にでかけた。
● なまこ壁と伊豆の長八美術館
「なまこ壁」とは外壁の目地を漆喰で「海鼠」のように盛上げたもの指す。保温、保湿、防火に優れ昔は田舎に出かけるとよく見かけたが、昨今は新しい建築材を用いて建てかえをするので、めっきり見かけることもなくなった。しかし、ここ松崎には左官職人もまだおり、「なまこ壁」の保存活動もなされている。その為、町のあちこちで「なまこ壁」を見かけることがある。
この左官職人として有名なのが松崎出身の入江長八である。江戸で絵や彫刻を学んだ彼は漆喰技術にこれらを応用し、漆喰こて絵を芸術の域まで高めた。その彼の作品が60点ほど集められているのが、「伊豆の長八美術館」である。
長八の作品の特長を一言で言うと細密かつ色彩豊か、そのため見学の際に受付でルーペを借りることができる。漆喰の絵なのでデコボコしたフレスコ画で、あまりに細かく繊細なその作風はルーベで見ると感動も倍増する。
この美術館から少し足を伸ばすと松崎の町外れに重要文化財「岩科学校」がある。小学校ながらユニークな建物で、なまこ壁に和洋折衷様式でバルコニーがある立派な佇まいである。そして、ここにも長八の手による作品があるので、立ち寄ることをお薦めする。
● 那賀川のほとりで出会ったシベリア抑留の老人の話
一通り町の観光を終え天気もよかったので、那賀川の沿いの木陰で川面を眺めていると、老人に声をかけられた。『君は、何してるんだ』、と。
いい歳した私を捕まえて『君』と言われても、と思いつつ、問いに答えず『東京から来た』と返答。その後、老人が語る松崎の四方山話を聞かされても、合いの手をうまく打てるはずもなく、こちらからご老人のお仕事を伺う。すると『もう90歳だよ、仕事なんかしてるかい』と。手押し車を押しつつも、炎天下を歩き回っておられる姿から想像もつかなかったご年齢、90歳!
そこから、昔の話をされ始め、満州に1年、シベリア4年いた、と話は続く。
その当時、何を食べていたのか、食べ物の話を尋ねると、黒豚が旨かった、と。満州の部隊では黒豚を飼っていたそうで、しみじみアレは旨かったなぁ、と。白豚と違って、猪に似た味わいなのそうだ。
一方、シベリアでの捕虜生活では、食べるものはロクに与えられないから、自分で取ってきた貝を干して食べたりした、そもそも住居施設もない野ざらし生活まで強いられた、と言う。高齢の人から死んでいくんだ。体力がないから蚊に刺されただけで、そこが晴れ上がって、医者にかかる前に死んじゃうんだ、とも。
満州での仕事は暗号班にいて、暗号通信の勉強をしながら勤務していた。だから実戦には参加しなくて済んだ。だけど、部隊では、しょっちゅう殴られていた、と。食事を食べ終えるのが遅いと飯釜をかぶらされて食堂で殴ったり蹴られたり、その後に演習場にたどり着くと、遅刻扱いで、また殴られる。夜は夜で消灯後、30分は寝られないんだ、見回りにきた伍長が片付けが悪いとまた殴られるから。仲間1人の不始末で、部屋全員が起こされ殴られる。今でも、悔しくて思い出して泣いたことがある。若くなければ持たなかった・・・。
でも終戦間近は、満州にいたから空襲にはあわずに生き残ったのかもしれない。捕虜にはなったけど、戦地で撃ち合いをしなかったのは幸いだった。それでも、捕虜になった時は、あたりは漢人、満人、日本兵と死屍累々だった。
ソ連が終戦間近に突如宣戦布告し、攻め込まれ捕虜に。そして、ソ連兵の話となると、口調が険しくなる、「露助の野郎が」と。露助の拳銃って言うのは黒くてデカいんだ、と銃を胸に突きつけられた時の話。突然、戦車から降りてきて自分の前に立ち、いきなりロシア語で食ってかかってくる。こちらは何を言っているか、わからないが、そのソ連兵は壊れた靴のせいで足を痛めたらしく血マメだらけ、自分の靴と取り替えろと言っているらしい。すぐに自分の靴を脱いで渡したので、命は助かったのだと思う。とにかく機転を効かせないと生き残れない。そして、ソ連兵の拳銃というのはデカいんだ、と。
シベリアからの帰還は、ナホトカから舞鶴へ。捕虜の間は、風呂になんか入れないから全身真っ黒。でも、そんなことより、帰国したら、饅頭食いたい、おはぎ食いたい、と頭の中はそればかりだった、と感慨深く語られた。
キャンプ場で教えてもらった大沢温泉 依田之庄で一風呂浴びてからの素晴らしいキャンプ場からの夕焼け。
小さな入江に面したキャンプ場に日がな独り。
今回も旅の出会いがあった。
松崎の良きところをたくさんアドバイスしてくれたパタゴニアが似合いそうなシーカヤックのお姉さん。
立ち話でシベリアでの捕虜生活4年間の話に突然ジャンプしてビビった90歳のおじいちゃん。
まだまだ戦後が続いているのだ、とテントの中でしみじみ珈琲を飲んだ。
● シベリア抑留者の実態を伝える新宿の平和祈念展示資料館
新宿住友ビル33階に「シベリア抑留者と戦後の引揚げ」に詳しい資料館がある。ここでソ連による抑留収容所はウクライナまでいたっていたと知った。広大なロシアに余すところなく収容所が配置されている。
酷寒の地で喰うにも困る状況で過酷な労働が課せられる。この厳しい生活ぶりは等身大のジオラマからも伝わってくる。そして、そんな過酷な生活の中での必需品が鍋底から粥を余さず掻き出すためのスプーン。並べられた手づくりのスプーンに痛々しさを感じる。1日の食事は350グラムの黒パンと薄い粥だけだった。
引揚港は舞鶴(58万人)がトップかと思いきや、博多(139万人)、佐世保(139万人)のほうが多いようだ。最近は残留孤児のニュースもなく意識が遠のいていたが、企画展の引揚体験者のちばてつやの漫画や4年も抑留された三波春夫のコメントなどから、死して抑留の地に残された者への無念が伝わる。
松崎の老人の話はけっして大げさでもなく、抑留先の各地で痛ましい状況があったことがこの資料館からわかる。世界的な大戦が終わった後の悲惨な抑留の現実は戦争の悲惨さをいっそうのものとする。一度、戦争が起こると恐ろしい余波がいつまでも続くのだ。