明治の女工の『富岡日記』和田英 著を読む / 産業遺産の保存に秀でた富岡製糸場見学記

明治の女工の『富岡日記』和田英 著を読む / 産業遺産の保存に秀でた富岡製糸場見学記

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2014年に世界遺産に登録された富岡製糸場は、バイクツーリングで向かうのに最適な観光地であった。富岡インターで降りてほどなく現地に到着し、無料でオートバイを停められる市営の宮本町駐車場も富岡製糸場のそばにある。
少々早く到着したので、駐車場から製糸場までの商店街を散歩する。お店の方からの朝の挨拶が気持ちよい。そして、富岡製糸場には開場5分前に到着した。レンガ造りの大きな建物を向かいにし、古い門柱や古い円筒の赤いポストをまんじりと見ながら開門まで待った。
富岡製糸場、保存状態の良い産業遺産として魅力ある建物たち
西置繭所の斬新な展示方法
屋内各所にあるパネル展示
創業当初の工女の日記『富岡日記』和田英著 を読む

● 富岡製糸場、保存状態の良い産業遺産として魅力ある建物たち

富岡製糸場の入口
富岡製糸場の入口

富岡製糸場の出発点は、建物建設から製造や運営までの指導はすべてフランス人に委託して始まった。その創業は1872年(明治5年)、運営途中では官営から民営に移りながらも1987年まで115年もの間、この工場は稼動し続けた。

工場内の主な建物は繭を保管する「置繭所」が東西に二棟、糸を紡ぐ「繰糸所」が東西の置繭所に挟まれ一棟ある。これらの建物が国宝とされている。

富岡製糸場全体模型
富岡製糸場全体模型

「置繭所」は全長100メートルあまりで、木骨レンガ造り、窓がずらりと並ぶ。この窓は繭の貯蔵方式が変わった為、後に塞がれることとなった。以前は風乾と言う通風による乾燥方法であったが、乾燥機の導入により保管場所には気密性が求められるようになった為である。

東置繭所 @富岡製糸場
東置繭所 @富岡製糸場
窓の塞がれた東置繭所2階 @富岡製糸場
窓の塞がれた東置繭所2階 @富岡製糸場

「繰糸所」は全長140メートルあり、小屋組みがトラス構造になっているのが特長で、柱のない見通しのよい屋内に2列の自動繰糸機が設置され、建物奥まで続く機械が壮観な眺めを与えている。ガラス窓からは充分な光が差し込むので、延々と延びる機械が妙に映える。

繰糸所 @富岡製糸場
繰糸所 @富岡製糸場
繰糸所のトラス構造とズラリと並ぶ自動繰糸機 @富岡製糸場
繰糸所のトラス構造とズラリと並ぶ自動繰糸機 @富岡製糸場

その他にも見どころのある建物は多く、当時の姿を残している産業遺産として、ここまで規模が大きく保存状態が良いものは、国内で珍しいだろう。その中のひとつ「鉄水溜」は、水を大量に使用する製糸工場の必需品の貯水施設である。こちらも日本で現存する最古とも言える鉄製構築物らしい。直径は15メートル、深さ2.4メートルもある巨大なタンクが中庭に設置されている。

鉄水溜 @富岡製糸場
鉄水溜 @富岡製糸場

また、創業時のお抱え外国人ブリュナの名前を冠した、ブリュナエンジンという単気筒のボイラーエンジンが復元され、中庭の施設に展示されている。工場創業の1872年から50年使用されたもので、単気筒のシンプルなエンジンである。オリジナルは明治村にあり、これを採寸し復元したものらしい。細かな解説もなされており、エンジン好きには興味ある内容であった。

ブリュナエンジン @富岡製糸場
ブリュナエンジン @富岡製糸場

● 西置繭所の斬新な展示方法

ブリュナエンジンの奧には西置繭所がある。西置繭所の展示は独特で、かなりモダンな展示法であった。1階部分が「ハウス・イン・ハウス」と呼ばれるガラス張りの箱に入り、建物内部を見学する仕組みになっている。建物の保存と補強を兼ねて考えられており、このガラス張りの箱内部はギャラリーとなる一方、箱の外部を見ると建物内部とその構造を触れることなく(傷めることなく)、つぶさに見ることができる。ガラス内のギャラリーは空調も効き、震災時にはシェルターにもなるという工夫がされているのである。

西置繭所の「ハウス・イン・ハウス」 @富岡製糸場
西置繭所の「ハウス・イン・ハウス」 @富岡製糸場

また、西置繭所は保存状態がよかったらしく、瓦も建設当時のものが大半、残っていたようだ。そこで最近の屋根補修の際に、その瓦5万枚を降ろし、1枚1枚検品し、補修を施して6割を再利用したとのことである。

西置繭所の屋根補修の展示 @富岡製糸場
西置繭所の屋根補修の展示 @富岡製糸場
西置繭所の構造模型 @富岡製糸場
西置繭所の構造模型 @富岡製糸場

● 屋内各所にあるパネル展示

屋内各所にあるパネル展示は、わかりやすい上に、非常に数多く用意されていて、養蚕から製糸まで工程がよく理解できた。置繭所は、そもそもは繭の保管だけでなく乾燥場を兼ねており、採光や通風に配慮され蒸気を逃がす工夫がなされていた。

これが先に記したように熱風による機械乾燥となり、乾燥工程が大きく改良された結果、置繭所は乾燥場の役割を終えて貯蔵場のみの使用となった。そのため、設置された窓はすべて塞がれ、鉄板を敷き詰め、気密性の高い倉庫にくら替えされている。結果、効率的に大量の繭を保管することが可能となった。これらが各所のパネルと実際の建物を比べることでよく理解することができた。

貯繭方法の変遷の説明パネル
貯繭方法の変遷の説明パネル

ちなみに繭糸の繊維は2種類のタンパク質でできており、一方が湯に溶けるので煮て取り除くと光沢ある絹糸となる。そのため、保管してある乾燥した繭は一旦煮ることになる。そして、煮た繭から糸口を引きだし、数個の繭の糸数本を合わせて1本の生糸として繰りとる。これが繰糸と呼ばれる作業。

昔は座繰りと呼ばれ、手引きで行なわれていた。これが自動化されることになる。この変遷も実機を見ながら理解することができる。繰糸の最終形態は富岡製糸場の繰糸所にあるニッサンHR型自動繰糸機。こちらで繰糸作業は大幅に省力化され、人が行なう作業は糸が詰まったり切れたりした際のメンテナンスだけになった。繰糸所には長さ32メートルの繰糸機が10機設置されていた。

上州座繰り器(江戸末期発明) @富岡製糸場
上州座繰り器(江戸末期発明) @富岡製糸場
フランス式繰糸機(創業の1872年から1930年まで使用) @富岡製糸場
フランス式繰糸機(創業の1872年から1930年まで使用) @富岡製糸場
ニッサンHR型自動繰糸機(1966年から操業停止の1987年まで使用) @富岡製糸場
ニッサンHR型自動繰糸機(1966年から操業停止の1987年まで使用) @富岡製糸場
ニッサンHR型自動繰糸機説明書き @富岡製糸場
ニッサンHR型自動繰糸機説明書き @富岡製糸場

● 創業当初の工女の日記『富岡日記』和田英著 を読む

富岡日記」という明治時代の工女の日記があり、日記文学に目がない自分は飛びついた。ページをめくると、まるで和田英さんのFacebookを読んでるかのように明治時代の富岡製糸場内の風景が広がる。それほど生々しい工女たちの日常が仔細に描かれている日記だ。

時折出没するという寮内のお化けの話やフランス人婦人の服装など、工場内のたわいもない事柄まで細かく描かれており、この時代にSNSがあれば工場のインフルエンサーとして脚光を浴びていたであろうような面白さである。

和田英さんが工女として寝泊まりした1873年の寮は今はないようだが、1918年に建てられた寄宿舎「榛名寮」は今も残る。ここの住居は20畳の大部屋であり、日記を読むと和田英さんも同じような寮に住んでいたことがうかがわれる。

一方、その横にある「首長館」と呼ばれるフランス人ブリュナ氏とその家族の為の住居やフランス人スタッフの為に建てられた建物との格差は著しい。こうした彼等を賄う費用のため富岡製糸場の採算は当初はかなり苦しかったと言う。

左:女工の寄宿舎「榛名寮」右:フランス人住居「首長館」@富岡製糸場
左:女工の寄宿舎「榛名寮」右:フランス人住居「首長館」@富岡製糸場

製糸場の入口を入ってすぐ左手にある洋館2つは「検査人館」「女工館」と呼ばれ、ともに1873年(明治6年)に建てられ、各々フランス人男性宿舎、フランス人女性宿舎用途の建物であった。ベランダに囲まれて東南アジアでよく見られるコロニアル様式となっている。工女たちに比べるとなんとも優雅な暮らしぶりだったことがうかがわれ、富岡日記から彼女たちへの憧れを少々感じた。

日記には、ブリュナエンジンを設置したブリュナ氏の夫人についての記述がある。1日置きくらいに氏と手を引き合って場内を歩いたらしく、その服装がたいそう麗しかったようだ。大礼の際の彼女の服装などは「神々しい」と詳細を描かれており、こういった服装への嗜好からも工女たちが西洋人に憧憬する様がうかがわれる。

富岡製糸場模型、入口付近の2棟の洋館
富岡製糸場模型、入口付近の2棟の洋館

また、戦中(1940年)に建てられた寄宿舎15畳の部屋が32室、最大一部屋12名と苦しく、建築材も苦しい物資調達の影響がみられる。こうして、時代によっても工女たちの処遇は大きく変わったのだろう。

寄宿舎 妙義寮と浅間寮 @富岡製糸場
寄宿舎 妙義寮と浅間寮 @富岡製糸場

これらの建物を把握しながら、先の「富岡日記」を読むと興味深い事この上ない。寄宿舎は大部屋で建物も大きかった。冬は寒いものだから、当然夜半にはトイレに行きたくなる。その際に障子の開け閉めで音が出て小言を仲間から言われる。廊下の種油の行灯は暗くて薄気味悪い。板塀の上に生首が、トイレの穴から毛ものが首を出したとか噂が絶えないとある。

製糸場での作業についての記述も興味深い。最初に製糸場を訪れた際の記述にはこうある。「私共一同は、この繰場の有様を一目見ました時の驚きはとても筆にも言葉にも尽されません。第一に糸とり台でありました。台から柄杓、匙、朝顔二個、皆真鍮、それが1点の曇りもなく金色、目を射るばかり。」
確かに、建屋は木造建築でこういった金属がずらりと輝くばかりに並んでいた光景は当時の人から見ると驚きであっただろう。

フランス式繰糸機の接緒器(糸口をつなぐ部分) @富岡製糸場
フランス式繰糸機の接緒器(糸口をつなぐ部分) @富岡製糸場

また、仏国人が終始見廻りをしていることにも驚いたようで、実際作業中におしゃべりをしていると「日本娘沢山なまけ者有ります」と非常に叱られるとあり、作業中も珍しさだけでなく、緊張感もいっぱいだったようだ。しかしながら、日本家屋の寒い屋内に慣れた身には、場内は居心地が悪くなかったらしく睡魔に襲われたともある。

ちなみに当時(官営当初)の労働時間は1日平均7時間45分、日曜休みで、食費、医療費は国が負担だった。国策工場であった故の好条件なのかもしれないが、生活に余裕はあったと思われる。そして、いくら官営工場と言っても現在の日本と比べて遜色ない労働条件から、今の日本が当時から進歩がないのだと感じてしまった。

この好条件はなかなか人が集らない為の苦肉の策だったのかもしれない。日記には、良家の子女が範を示す為に参加を促されたと書かれている。それ故の好待遇だったのかもしれない。和田英さんの父は信州松代の旧藩士で松代の区長をしていたとあるから、家柄もよろしかったようだ。ただ、それ故に娘を送り出さざるをえなかった様子もうかがえる。

なにせ、製糸場のフランス人から生き血をとられるとまでの噂が流れていたとあり、その証拠が区長が娘を出さないことだとまで言われたとある。フランス人にとっても迷惑な話だが、創業時の人集めの苦労は相当なものだった。

繭置き場のところどころにある落書き @富岡製糸場
繭置き場のところどころにある落書き @富岡製糸場

一方、労働条件はよかったようだが、食事は今ひとつだったようだ。上州という内陸の立地故に食材が貧しいこともあったようだが、大晦日の夕飯を楽しみにしていると痛んだ鰺の干物、おかちん(お餅)も「1升枡くらいの四角さの薄き物2枚ずつ」とある。通常でも臭いのするご飯が出たり、野菜の煮物メインで、特に土地柄故の芋ばかりで閉口したとある。

こうして日記を引き合いに出しながら富岡製糸場を巡ると古い産業史跡も息吹いてくる感じがする。場内は広く朝一番で入場し、ゆっくり解説を読みながら回ってみたところ、滞在時間は2時間を越えていた。

日本 / 群馬県

<詳細情報>
富岡製糸場
群馬県富岡市富岡1−1
http://www.tomioka-silk.jp/tomioka-silk-mill/