前回からの続き。ベルリンでオートバイをレンタルし、旧東ドイツ(DDR)圏のロングツーリング中、今回の旅のメインテーマは「バウハウスの史跡巡り」。バウハウスとはドイツの小さな学校で、たった14年間と短期間の活動ながら、後世のモダンデザインに大きな影響を与えた。
この14年の間にバウハウスはその本拠地を点々と移している。最初は本格的な国立学校としてワイマール / ヴァイマル(Weimar)に、次は市長の後押しもあって市立学校としてデッサウ(Dessau)に、最後は短命に終わる私設学校として首都ベルリン(Berlin)に移動する。実はこの3都市、ちょっとしたバイクツーリングには、ほどよい距離感なのだ。
また、各都市内には徒歩で回るには不可能な数のバウハウス建物群が点在しているので、どうしても移動のための足が必要になる。その面でもオートバイは重宝した。
本日は、デッサウ(Dessau)近郊のテルテン(Törten)でバウハウスの集合住宅を眺め、ベルリンに戻ってからAEGタービン工場(AEG Turbinenfabrik)とバウハウス資料館(Bauhaus Archive)を覗く。
● デッサウ郊外のバウハウス巡り、テルテン(Törten)のジードルンク(集合住宅)エリアへ
● ベルリンのバウハウス史跡、AEGタービン工場とバウハウスに至る建築史
● バウハウスとベルリン、そしてバウハウス資料館
● 感慨深かったオートバイツーリングでのバウハウス史跡巡り
● デッサウ郊外のバウハウス巡り、テルテン(Törten)のジードルンク(集合住宅)エリアへ
ここからベルリンまでは120km。アウトバーンで一気に戻ればあっという間なので、朝はのんびりとデッサウ郊外のバウハウス巡りに向かう。ワイマールと同様に、町の中心からちょっと離れた場所に点在しているので、自分の足(オートバイ)があって助かる。
ヴァルター・グロピウス(Walter Gropius)が低所得者向けに1926年からつくった集合住宅がデッサウ(Dessau)の2km南、テルテン(Törten)ある。この集合住宅はジードルンク(Siedlung)と言い、賃料を安く押さえる為に建築コストを削減しつつ機能的な建物をつくるのがコンセプト。もうすぐ100年経つが未だに人が生活しており、古びていないのがさすがで、デザインの勝利とも言える。
このテルテンにある世界初の外廊下型の集合住宅 (Laubenganghäuser Bauhaus Dessau)、外廊下の形態は日本の現代建築でもよく見かけるが、その先駆けとなったもの。設計はグロピウスの後を継いで校長となったハンネス・マイヤー(Hannes Meyer)。この人はバウハウスに建築課程の基礎をつくった人で数学と工学の授業をも導入した人。美的問題よりも社会科学的問題に関心が高く機能的、合理的な人だったらしい。前任者のグロピウスは、きっと自分と異なる新しい血をバウハウスに入れたかったのだろう。
この校長交代の際のグロピウスの辞職は周囲に驚きと不安を与えたが、当時バウハウスへのイデオロギー攻撃は自分の責任と彼は感じていたので仕方ないことだったのだろう。 保守派の有力者達によってワイマール市からも追い出されてしまい、新天地デッサウでは失敗したくなかったのかもしれない。
しかし、後任校長に選んだマイヤーの人選はいただけなかった。彼は筋金入の左翼思想の持ち主で、ナチスが力を増す当時においては御法度の人選であった。当然、当局との衝突も多くなり、短期間でマイヤー校長も職を辞することになる。しかし、実践的な建築過程をバウハウスに導入し、学生の社会的意識を増大させた彼の功績は大きい。
そして、彼の在任中に注力されたテルテンの低所得者向けの住居開発は、マイヤーが本領を発揮できる壮大な現場だったろう。テルテンのジードルンクエリアは今でも普通の生活空間となっている。マイヤーの思想と視点で、今も人が住まう町並みを眺めると感慨深いものがある。
● テルテン(Törten)のプレハブ住宅、 スチールハウス
前日見たワイマールのハウス・アム・ホルン(Haus Am Horn)を設計したゲオルク・ムッヘ(Georg Muche)はここデッサウでもプレハブを建てている。スチールハウスと言い、コンクリートスラブの上に鉄骨とスチールプレートで組み立てたプレハブ。1927年建設とのことなので、このプレハブの設計思想が如何に斬新かがわかる。
さて、朝の散歩がてらテルテンを見た後は一気にアウトバーンでベルリンに向かう。
● ベルリンのバウハウス史跡、AEGタービン工場とバウハウスに至る建築史
初代バウハウス校長のグロピウスは、かつて電気会社AEGの仕事を請け負うべーレンスの設計事務所に勤めていた。この時、彼は建築だけでなく製品デザインやグラフィックデザインにも取り組むことになった。このことがバウハウスの思想の根幹が機能一辺倒ではなく芸術的要素を加味するきっかけとなったと思われる。ベルリンには、グロピウスの先輩であるベーレンスが手がけたAEGタービン工場(AEG Turbinenfabrik)の威容を今でも見ることができる。
このペーター・ベーレンス(Peter Behrens)という人はグロピウスより少し前の時代の建築家である。デザイナーでもあった彼の手による木版画を見ると、その「接吻」という題材名からも、うねる髪の毛の表現からもユーゲントシュティールの強い香りがする。ちなみにベーレンスのキャリアに弾みをつけたのがゴットフリート・ゼンパー(Gottfried Semper)。あのドレスデンの歌劇場(ゼンパー・オーパー)やウィーンの美術史美術館を設計したその人である。ゼンパーがプロイセン商務省在籍時にべーレンスをデュッセルドルフ美術学校の校長に任命し、その後建築家としてますます彼は大成していくことになる。
ベーレンスが手がけたAEGタービン工場を見ると、大きな窓と垂直に幾本も並ぶ窓枠など、後のバウハウス建築に通じるものがある。一方、神殿のようなAEGタービン工場の大きな構えとゴツゴツした印象はやはり古典的な部分を残している。
こうして近代建築のバウハウスに至る流れを俯瞰して見ると、世の中の工業化による素材の発達、大量生産や機能を重視する思考が建築に流れ込み、この機能性と芸術としての建築とが葛藤を巻き起こす現象の最中にベーレンス達がいたことがよくわかる。バウハウスのワイマール校(旧美術学校)やこのAEGタービン工場などは、ゼンパーの古典的な建築やユーゲントシュティールからモダニズム建築への移行する過程にあり、前時代の美学を尊重しながら機能を盛り込み新しい素材を積極的に使おうとする思考が見て取れる。 つまり、アンリ・ヴァン・デ・ヴェルデやベーレンスはゼンパーからグロピウスの橋渡しをしているのだった。ちなみにゼンパー・オーパーが1878年に建てられ、バウハウスのデッサウ校が1925年であるから、その差は50年に満たない。あのデコラティブな古典建築から鉄とガラスとコンクリートのビルへの変化が半世紀で起きたのだから驚きである。
● バウハウスとベルリン、そしてバウハウス資料館
1932年 ナチスがデッサウ市を制し、バウハウス校が廃校となるとミース・ファン・デル・ローエ(Mies van der Rohe)校長はベルリンのランクヴィッツ(Lankwitz)の空き工場で私立校としてバウハウスを再開する。しかし、その期間はたった6ヶ月、翌1933年春にはナチスに学校を占拠され、運営のままならないまま夏に廃校が確定となる。ワイマール、デッサウと迫害を受け、よくぞ首都ベルリンで再開を試みると思うが、公的援助を受けない私立での再開も驚きの短命で終わってしまう。時局はそこまで酷い時代になっていたのだった。そして、カンディンスキーなど教員達は次々とドイツを去ることになる。ローエ校長もナチスを逃れ渡米し、後にシカゴで大成功を収めることになる。そして、ローエの設計したビル群は今も全米各都市に健在である。
ベルリンには、バウハウスの変遷を知るに最適なバウハウス資料館(Bauhaus Archive)がある。建物の設計はグロピウスによるもので、ダルムシュタットに建設予定だったが叶わず、グロピウスの死後にベルリンに建てられた。
ここでは、椅子などの家具、グラフィック、ファブリックを通じてバウハウスアートの歴史を見ることができる。規模は大きくないが解説が丁寧で見応えがある展示だ。そして、ミュージアムショップも小さいながら充実しており、記念品を購入するのに最適だった。
● 感慨深かったオートバイツーリングでのバウハウス史跡巡り
ドイツ中央部の小さな村プロプストツェラ(Probstzella)から始まったバウハウスの旅を締めくくるのに、ベルリンのバウハウス資料館訪問は、旅のよい振り返りの機会となった。
見事な復活をしたプロプストツェラのバウハウス建築のホテル「Haus des Volkes」、学生が廊下で課題をこなしていたりキャンパスでキャッチボールをするなど日常に溶け込んだ現代のバウハウスのワイマール校、100年ほど経ちながら今も人が住まうデッサウ近郊のバウハウスの集合住宅を見て回り、感慨深いものがあった。
実は、バウハウスの建築は昨今のもてはやされ方から大きく誤解していた。実用的と言いながら実はさほど機能性は高くなく、見かけ倒しの「いずれ飽きのきそうな」デザインという印象であった。また、クレーやカンディンスキーと関係していることは知識では知っていても、バウハウスの機能を前面にだしたデザインと芸術性との親和性は少ないだろうと勝手な想像していた。
バウハウスデザインは水平垂直でモノクロのイメージを持っていたが、実は美しい幾何学的なアーチが仕込まれていたり、クレーやカンディンスキーが関わっていたのだから当然なのだが、配色や色味にも深く検討が加えられている。そして、建物の細部にジンワリ工夫と美しさを感じるところが多々あって、それが今回見て回ることによって身体の中に入ってきた感じがした。
ワイマール、デッサウ、ベルリンとバウハウスの壮大な建築群を見て回り、古典的建築とモダニズムの折衷的なデザインのホテル「Haus des Volkes」で時を過ごしてみると、このバウハウスの運動がテクノロジーとアートの融合の大きな流れであって、必然性をもって現代に受入れられているのが理解でき、とても有益なバウハウス巡りであった。(次回に続く)