今回の旅のテーマは、東プロイセンとハンザ都市を巡ることだったのでマルボルク城(Zamek w Malborku)/ マリーエンブルク城は外せない訪問地であった。
マルボルクのドイツ名はマリーエンブルク (Marienburg)、この街は琥珀貿易に携わり、ハンザ同盟にも加盟していた上に、一時はグダニスクを支配する立場にもあった。
そのマリーエンブルクには、世界一のレンガ造りの城として世界遺産にも登録されているマルボルク城があり、ここはポーランドとドイツの因縁の歴史が始まった象徴とも言える城である。
1410年7月のタンネンベルクの戦いは、ドイツ騎士団とポーランド王国-リトアニア大公国連合軍が激突する中世最大の戦闘であり、その後のマルボルク城の籠城戦も熾烈を極めた。書籍『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』には、その戦の手に汗握る展開が描写されている。
● マルボルク城(Zamek w Malborku)へ
● マルボルク城を築いたドイツ騎士団、ハンザ同盟との関係、ポーランド王国との確執
● タンネンベルクの戦い、『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』 山内進 著 を読む
● マルボルク城内部を巡る
● マルボルク城で見ることができるトイレ塔(Dansker)
● マルボルク城(Zamek w Malborku)へ
マルボルクへはグダニスクからアプローチするのがよい。車でグダニスクを8時に出発して、朝のラッシュアワーに巻き込まれながらも、9時半にはマルボルク城(Zamek w Malborku)に到着した。電車でもグダニスクからは1時間ちょいくらいだろう。ワルシャワからマルボルクに向かうには距離があるので、グダニスクの観光と合わせて立ち寄るのがよい。
車で広大な城の周囲をぐるりとまわり、マルボルク城入口前の広場に車を乗りつけると付近に駐車場がない。広場をはさんだ小道の向こうに小さなオフィス建屋が見え、その前に広い空き地がある。向かいのオフィスらしきところに通勤する方がいたので、こちらに停めてよいかと尋ねると、気さくな方で問題ないと即答してくれた。おかげで、駐車場探しに近辺をウロウロせずに済み、そちらにレンタカーを停めさせてもらう。どうも了承してくださった方のオフィスの看板を見ると遺跡などの建築を修復している会社のようだ。
ドライブをしていてもこの手軽な感じで移動ならび駐車できるのが、シーズンオフの旅の良さだろう。観光バスが押しかけるユネスコ世界遺産なのだから、シーズン真っ盛りの場合はこうもいくまいし、どの駐車場も満車になってしまうにちがいない。
城入口前に立って気がついたのだが、チケット売り場はここから少々離れたところにある。しかも早く着きすぎたので入場まで30分以上もある。そこで、城の周囲を巡り、ノガト川のかかる橋をわたったり散歩をすることにした。
● マルボルク城を築いたドイツ騎士団、ハンザ同盟との関係、ポーランド王国との確執
マルボルク城ができる背景には、ドイツの東方植民という大きな流れがある。11世紀から北部や東部のドイツ諸侯は農民や商人をより東方に誘致し始めた。これと同時に非キリスト教徒であるスラブ民族に対する伝道や成敗する目的でドイツ騎士団が成立する。言ってみれば十字軍の北方版である。そのような東方植民の情勢下、当時異教徒に手を焼くポーランド王がドイツ十字軍をポーランド内に呼びよせることもあった。その呼び寄せられた騎士団が1274年に建てたのがマルボルク城である。その後、ドイツ騎士団が駐留する中、城の建設は230年続き、威容を誇るその姿は世界一のレンガ造りの城となっている。
そもそもポーランドが王国として成立したのが1025年であり、その際の領土は現在のチェコやスロヴァキアを含む広大な領土であった。しかし、その後近隣での反乱、神聖ローマ帝国との争い、タタール(モンゴル軍)の侵入など混乱が続く。
こうした混乱のポーランドにおいて、13世紀になるとドイツ騎士団との因縁が始まる。ポーランドが散々悩まされたのは近隣地域の異教徒であるプロイセン人やリトアニア人。彼等をキリスト教化する為、1226年にポーランドはドイツ騎士団を招き入れることにした。ただし、この後ドイツ騎士団は次々とポーランド内に都市を築き、強大な力を持つようになっていく。そして、しまいにはプロイセンなど豊かな国土の一部を領有するようにもなる。
1241年のワールシュタットの戦い(レグニツァの戦い)もこの渦中での出来事。この時、ポーランドはドイツ騎士団と組んでモンゴル軍を迎え撃った。ポーランドはモンゴル軍に大敗をきしたが、モンゴルの進軍はこの地でとまることになった。
こうしたポーランドとの関係の中で、ドイツ騎士団は14世紀に最盛期を迎え、なんと93の都市と1400超の村々が造られた。このドイツ騎士団の反映と同時期に発展し始めたのがハンザ諸都市である。ドイツ人商人が築いたハンザ都市はドイツ騎士団と結びつき、バルト海貿易を完全に手中に収める。これによってドイツ騎士団領地の豊富な穀物がハンザ都市を通じて西ヨーロッパへ輸出され、ハンザ都市を更に潤すことになる。一方、ドイツ騎士団もケーニヒスベルク(カリーニングラード)やエルビング(エルブロンク)など自ら築いた諸都市を発展をさせていく。
また、ドイツ騎士団領には更にドイツ農民が入植し始める。これによってハンザ同盟とドイツ騎士団は強大な経済圏を築くことになった。こうして力を増したドイツ騎士団は次第に、当初国土に招き入れたポーランド王国と争うようになってくる。
そして、1410年、グルンヴァルト(ドイツ名 グリューンフェルデ)とステンバルク(ドイツ名 タンネンベルク)の間の草原でドイツ騎士団とポーランド連合軍が大激突する。この所謂「タンネンベルクの戦い」において敗退したドイツ騎士団は徐々にポーランド王の支配下に入ることになっていった。ただし、この時の「タンネンベルクの戦い」でドイツ騎士団は大敗を喫するものの、籠城した為に城を守りきり、マリーエンブルク城の居城は引続き認められることになった。しかしながら、その後の再度の戦争で遂に1457年に城はポーランド王に明け渡され、以降ポーランドの所有が315年間続く事になる。
次にポーランドがこの城を手放すのは、1772年の第一次ポーランド分割の際となる。この地域はプロイセン王国領となり、再びドイツ人の手中となる。第一次世界大戦後もこの地はポーランド回廊に隣接するも、マルボルク城は東プロイセンに留まる。第二次世界大戦前はヒトラーによりヒトラーユーゲントやドイツ女子同盟の為に城は活用されたりもした。
そして、第二次世界大戦後にやっとマリーエンブルクはポーランド領となり、名称もポーランド語のマルボルクとなる。ポーランド領となった他の諸都市と同様にマルボルクのドイツ人住民は追放され、マルボルク城は再びポーランド領となる。しかし、第二次世界大戦の激戦でマルボルク城は無残な姿になってしまい、その姿がチケット売り場そばの大きなパネルで見ることができる。
しかし、その無残な姿の城を示すパネルの後ろにはが見事に修復された現在のマルボルク城がそびえ立っている。
● タンネンベルクの戦い、『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』 山内進 著 を読む
マルボルク城を巡る、激戦のあった「タンネンベルクの戦い」については、『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』 山内進 著 が詳しく、その描写が絵巻物のようで読み応えがあった。
この戦いは1410年7月 ドイツ騎士団とポーランド王国-リトアニア大公国連合軍が激突した中世最大の戦闘であった。そして、ドイツ騎士団が没落する契機となった戦いであり、ポーランド史においては一大事件である。
戦いのいきさつはこうであった。
1409年8月にドイツ騎士団はポーランド国王に宣戦布告をおこなう。双方とも気運は高まっていたので戦闘準備は万端。ポーランド-リトアニア連合軍はドイツ騎士団の本拠地マリーエンブルク(マルボルク城)の占領を目標と決定し、翌1410年に進撃を開始する。
ポーランド、リトアニア両軍とも数日をかけて大河を渡り合流し、マリーエンブルク南のクルツェトニク(Kurzętnik)を目指す。それを察知したドイツ騎士団側は、目的地が当初想定していた東ポメラニアと異なることを知り、クルツェトニクに急行する。クルツェトニクにおいて、先んじて騎士団側が陣地を固めた為、連合軍はこれを迂回せざるを得ず、激突の地は更に東のタンネンベルク(Tannenberg / Grunwald)に移る。
そして、1410年7月15日におこなわれた「タンネンベルクの戦い」は中世史上最大の会戦となる。ドイツ騎士団は総勢2万~2万2千人、ポーランド連合軍側はタタール、ロシアなどの傭兵を含めて3万から5万人の戦闘員がいた。ただし、数の上では騎士団側は劣るが、大砲や鍛錬の上ではドイツ騎士団軍は充分に勝っていた。
当日は真夏の嵐の日。両軍にらみ合うも、なぜかポーランド国王はミサをおこなおうと言いだし、なかなか動かない。嵐という天候も手伝って戦闘開始は正午すぎになってしまう。実はこの戦闘開始が遅れた背景には、双方の布陣する地形にあった。森林に布陣するポーランド連合軍に対して、ドイツ騎士団軍は森林手前の平原に陣を築いた。騎馬と歩兵で機動力に優れた騎士団は平原で戦いたい。一方、連合軍側は森での戦いのほうが有利に戦を運べると踏んでいる。それ故ミサを口実にしてポーランド国王は先制攻撃を拒んでいたのではないかとも言われている。
このにらみ合い状態で、騎士団は一計を講じる。使いを出してポーランド国王を挑発したのだ。そして、嵐も止み、挑発にのった連合軍が先制攻撃をしかける。しかし、ドイツ騎士団が戦いを圧倒し、連合軍敗退の体となり早々に追撃戦の展開になった。そして、後方に位置していたはずのポーランド国王の目の前に敵が迫る事態に陥ってしまう。
その時に奇跡的な出来事が生じる。不利な情勢に逆上したポーランド国王が単騎でドイツ騎士団軍勢に立ち向かい、騎士団側の騎士と中世的な一騎打ちの体裁になったのだ。側近の助けもあって、ポーランド国王は一命をとりとめ、更にこの時の戦の中断が、連合軍側に有利に働く。
態勢を建て直したポーランド連合軍は予備軍もすべて投入し、圧倒的な兵力でドイツ騎士団に襲いかかった。この時、騎士団側の大半の兵士は追撃戦と戦利品の収拾に勤しんでおり、戦は終わったと感じていたからたまらない。油断していた騎士団軍はポーランド連合軍に包囲されてしまう。そして、午後6時頃にはポーランド-リトアニア連合軍の勝利が確定した。
この後、連合軍は3日休養し、主目的のマリーエンブルクに向かうことになる。ただ、この追撃が遅すぎた。マリーエンブルクに到着したのは8日後の7月25日、既に騎士団側は防備も固めている。そして、騎士団側の鉄壁の守りと充分な兵站備蓄から2ヶ月の籠城戦の結果、連合軍は撤退せざるをえなくなる。
「タンネンベルクの戦い」において、ポーランド連合軍は戦には勝利したものの完全勝利にはいたらなかった。一方、ドイツ騎士団は領土こそ失わなかったが、その死者や捕虜を含めて被害は甚大であり、この後騎士団は没落を加速していくことになる。
『北の十字軍 「ヨーロッパ」の北方拡大』の結びで面白いことが書かれている。「タンネンベルクの戦い」には同名の1914年の会戦があり、第一次世界大戦でドイツがロシアと同地で戦った。これは先の戦いがゲルマンのスラブに対する敗北という、ドイツにとってはナショナリズム的なマイナスの価値観があり、それをくつがえすためにドイツ側が命名したものだ。つまり、過去においてスラブに負けたドイツが、第一次世界大戦ではドイツがスラブを破り、雪辱を晴らしたという意味をもたせるために付近の戦に同じ名前をつけたらしい。
更にお話は続き、1939年の第二次世界大戦時はナチスドイツはポーランドに侵攻して最初にクラクフにあるグルンヴァルト(タンネンベルク)記念碑(Grunwald Monument / Pomnik Grunwaldzki)を破壊した。これもこの故事に習ったのだろう。そして、その記念碑はクラクフのバルバカンそばの広場に1976年再建され、記念碑の頂点には「タンネンベルクの戦い」で一騎打ちを受けたヴワディスワフ2世の騎馬像がそびえる。
また、この記念碑の再建決定と同時に、ヴァヴェル城の麓、ビスワ川に架かる新しい橋は、グルンヴァルト橋(Grunwald Bridge / Most Grunwaldzki)と名付けられた。
● マルボルク城内部を巡る
マルボルク城は単体の城としては稀にみる大きさで、中を見て回るのは楽しい。西洋の城の構造は一度勉強しているので、オフシーズンの城内を一人スタスタと巡った。
朝一番の見学者なので、閲覧可能の部屋の扉が開いてない部屋もあったりしたが、この広大な城にして見学者は学童引率の10人ばかりの子供と私1人である。行きつ戻りつ自在にできた為、扉を押し引きし丹念に見て回り、たぶんすべての部屋を見ることができたと思う。
たぶん、と言うのは、寒さ故に内庭に面した城の各部屋は扉が閉じられており、あげく入口の表示や方向を指し示す標識の類いは一切ない城なので、ドアノブを引くまでは、そこが展示室かどうかもわからないからである。
しかし、これがダンジョンのゲームのようで、とても面白い。城内の重い扉を押し開けたり、引っ張ったり少々たいへんだったが、開いた扉の向こうに係の方がスマホを眺めていたり、歓迎してくれたりとその様子も楽しかった。ただ、漏れなく完全に城内を見たい方は素直にガイドツアーの時間を待つか、オーディオガイドを借りて、そちらに従うほうがよいかもしれない。
マルボルク城の中で1番奥にある城が「高城」と呼ばれ、もっとも高い位置にある。高城へ向かう橋を渡ってから、高城をぐるりと廻る。
この高城の麓の周囲には16~18世紀の墓石が並び、これらは1910年にグダニスクから持ち込まれたらしい。全身像が刻まれた記念碑の人物はモスクワ遠征をしたジグムント3世の廷臣である Wolf von der Oelsnitz という騎士。
この墓石を横目に付き合った扉を開けると、ドイツ騎士団総長が眠る聖アンナ礼拝堂に入ることができる。中は真っ暗であり礼拝堂を通り抜け反対側に出られることに気がつかず、実は高城のまわりを2回も巡ってしまった。
この礼拝堂にはドイツ人画家ヘルマン・シャーパー(Hermann Schaper)がグリュンヴァルトの戦いの50周年の為に1911年に描いた壁画があった。これが1945年の第二次世界大戦中の被災してしまったが、残された図案から現在は修復された。この図案は中城の博物館内で見ることができる。
● マルボルク城で見ることができるトイレ塔(Dansker)
回廊から外れる妙な通路があり、先は真っ暗。ずんずん進むと到着したところは城の本館から突き出した塔。なんとそこはトイレ室であった。城の図鑑などで見るように、廃棄物はかなり高い位置から城外の下に落ちる仕組み。防衛上からも衛生上からもよくできた仕掛けであり、有事の際はこの塔への通路を切断できるようになっている。
展示されているトイレを模した部屋には、ご丁寧にトイレットペーパー代わりのキャベツの葉っぱも配置してある。ちなみにトイレは仕切りがあったのかは定かではないらしいが、木製のボックスシートは後に発見されている。また、トイレはこのトイレ塔以外にもあって形態も様々。小さなトイレの塔、外壁から突き出たトイレ、非常に厚い壁の中に隠されたトイレ、高位の人用の城内で使うポータブルトイレなど様々なトイレがあったようだ。
渡り廊下でつながったDansker(トイレ塔)は13~14紀のドイツの城砦によく見られる。塔の下の堀に不純物が直接落ちて、城内の排泄物を取り除くことができるようになっていた。
また、塔は防衛の際の最後の籠城場所としても機能する。城のほとんどが敵の手に落ちた際に、最後の防衛戦となるように主要建物の側面に付けられている。マルボルク城では高城の1番奥に当たる場所である。
最終防衛の砦でとなる為に塔と城を結ぶ通路は簡単に切り離せるように作られており、武器や食料の備蓄を屋根裏部屋に蓄えていた。
13世紀後半から14世紀にかけて、この種の衛生兼防御の為の塔が騎士団領の多くの城に建設されており、トルニとクヴィジンにも、この種の塔が残されています。
マルボルク城(Zamek w Malborku)🇵🇱
— ごーふぁー 🇵🇱🇨🇿🇩🇪 (@juntaniguchi) November 23, 2019
シーズンオフ朝一で誰もいない古城。扉を開ける度に展示室がありダンジョンのゲームのようで面白い。回廊から外れた妙な通路があり、真っ暗。ずんずん進むと城外の塔で、トイレの間!高い位置から城外に排泄物を落とす防衛上からも衛生上からもよくできた仕組み。 pic.twitter.com/fF0jdvdi70
ポーランド / マルボルク
<詳細情報>
・マルボルク城(Zamek w Malborku)
Starościńska 1, 82-200 Malbork
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