ハーレー(Harley-Davidson)をレンタルし6日間3000Kmのオレゴン州とカリフォルニア州の旅に出た。オレゴン州北部にはコロンビア川という大河が流れており、この周囲の土地には、かつて多くの日系人1世が移住してきていた。彼等は農地を開拓し、特にコロンビア川沿いの町フッドリバー(Hood River)では、一大コミュニティを形成し後世に語られるべき物語を残している。
一方、横浜にJICA(国際協力機構)による海外移住資料館(Japanese Overseas Migration Museum)がある。日本では珍しい移民博物館であり、最近リニューアルをしたばかりである。
先の日系人1世の背景にある日系移民の歴史を復習するために再訪し、改めて日本の海外移住の歴史を学んできた。
● コロンビア川とオレゴントレイル
● マウント フッドの麓の瀟洒な町 フッドリバー
● 海外移住資料館でみる日本人移民の歴史
● コロンビア川とオレゴントレイル
このツーリングで思い出深いのはコロンビア川を初めて見た時であった。長らく山間部を走り、ザ・ダレス(The Dalles)という大きめの町にでた、そして、目の前に現れた巨大な河、川幅の広さと深遠な水の色に気圧された。
この近辺はThe Historic Columbia River Highway(コロンビア川歴史旧街道)という道がコロンビア川沿いのハイウェイと並行して走っており、旧街道からは高台の尾根づたいにコロンビア川を臨んで走ることができる。ところどころ断崖もあり、絶景ながら少々胆が冷える道だが、その分見事な見応えある眺めが続く。
しかし、この道も1910 年代に着工されたもので、比較的最近のものである。その昔はこの近辺は大自然に阻まれた難所で知られていた。書籍『はるかなる大地の道―150年目のオレゴントレイル』によると、このザ・ダレスの町が当時の岐路だったらしい。その先のポートランドまではあと80マイルである。しかし、川岸に道はないので、陸路ならば迂回して倍の行程となる山道を行くしかなく、川を下るのであれば船をチャーターもしくは筏を組む必要があった。前者はカスケード山脈を越える旅になり、後者のコロンビア川くだりは金も準備時間も要することになる。
カスケード山脈ルートのほうは嶮しい道を開拓したらしく有料道路だったようだ。それでも危険なコロンビア川を下るよりも安くて安全だった。一方、コロンビア川ルートを選択した者は、荷馬車を売ったり、解体して筏に乗せたりの大作業が待っている。そして、コロンビア川は一見たゆとう大河のイメージだが、カナディアンロッキーから注ぎ込まれた川であるから急流で風も強い。つまり、どちらを選択しても一苦労であり、あと一歩で西海岸に到着という場所で命を絶つ開拓者も多くいたらしい。
● マウント フッドの麓の瀟洒な町 フッドリバー(Hood River)
そして、急流かつ川幅の広いコロンビア川に架かるとても立派な橋フッドリバー橋(Hood River Bridge)が見えてくると、そこがフッドリバー(Hood River)の町である。このフッド リバー橋は橋梁の中央部分が上に持ち上がる昇開橋になっているのも見応えがある。
フッドリバーの町は宿場町を思わせる佇まいで、新旧の建物が混在しており目抜き通りの商店街にはなかなか小洒落た店が立ち並んでいる。日本人に深いつながりがある街とは知らず、小1時間ほどこの町を散歩をした。
ちょうどお昼時なのでオーガニックを売りにしているらしいレストランに入った。柔らかい味ながらマメの味のコクを楽しめる野菜スープに、ちょっと塩からいドライトマトがモッツァレラチーズと合うドライトマトのサンドウィッチをいただいた。
食事をとった後は、再びバイクに跨がりオレゴン州の最高峰で3,353メートルあるマウントフッド(Mt.Hood)に向った。かつて開拓民が困難を極めた道とはつゆ知らず。また、風格のある美しいマウントフッドが、近辺のどこからも眺められ、富士山にみたてたであろう日本人移民が多く界隈に住んでいたことも後に知ることになった。
● 海外移住資料館でみる日本人移民の歴史
横浜にJICA(国際協力機構)が開設した海外移住資料館(Japanese Overseas Migration Museum)がある。JICAはその昔に海外移住事業をおこなっており、今でも中南米の日系社会と日本を繋ぐ事業を継続しているようで、その縁からこの資料館を立ち上げたと言う。資料館と言っても広いスペースで展示量も多い。日本の移民の歴史はこちらで学ぶことができ、日本では珍しい移民博物館となっている。
日本の移民の歴史は当初、外国側のニーズから始まった。江戸時代の開国の際、外国人たちは日本人労働者を雇用し、海外に連れ出すことを望んでいた。その結果として日本人の渡航が始まることになる。明治元年には「元年者」と言われるハワイ移住者が150人ほど渡航する。これはハワイの砂糖産業が大発展し、ハワイ王国がサトウキビ畑で働く労働者を欲しがった為であった。しかし、この後から日本政府は日本人渡航が、奴隷貿易となることを恐れて移住を禁じることなる。
一旦、減少した出国者だが、1885年(明治18年)になるとハワイ王国の要請に応じ、945人を官約移民としての渡航することになった。ここから海外出稼ぎが本格化した。また、これに先立つ形で1881年頃から「書生」が個人的に渡米し始めていた。書生はアメリカで得た知識や技術をもって帰国し、日本でひと旗あげることを夢見ている若者たちである。帰国後を楽しみに渡航したのは書生だけでなく、農民出身の渡航労働者も同様だった。彼等は大金を貯めて祖国に持ち帰ることを夢想しており、この出稼ぎ労働者たちのほどんどが若い独身男性であった。
早期渡米者は望み通り帰国する者もいたが、徐々に出稼ぎ期間を延長し、やむを得ずその地に留まる者も多くなってきた。更に海外出稼ぎがブームとなり激増する。しかし、1880年後半からはアメリカは移住制限の声が高まり、1900年代には国際問題となる。そして1908年米国との交渉によって労働目的のアメリカへの渡航が禁じられてしまう。
写真結婚の増加も移住制限を促進する原因となった。アメリカへの移住者は農村出身の独身男性が多く、いざ定住するとなると花嫁不足が深刻となる。そこで、花嫁候補は渡米前に写真を交換し見合いをするようになった。これが写真花嫁である。この写真花嫁によって結婚の為に渡米する女性も増え、米国で子供も生まれたことから、日本人の人口はアメリカ国内で増え続ける。このことがアメリカ人たちを余計刺激し、日本人の移民をますます警戒するきっかけにもなった。
そして、1921年にアメリカでは移民割当法という法律が制定される。これにより「1920年当時の移民の出身国別割合」に応じて、移民の受け入れ枠を制定することになった。つまり古くからアメリカへ移民をした国の出身者ほど多人数が渡米できる形になる。更に1924年にこの法律は改定され「出身国割合の基準が1890年当時」となる。
この結果、19世紀に渡米した移民であるドイツ、スカンジナビア、アイルランド出身者が増えることになり、一方で東欧や南欧出身者が減り、主にポーランド移民やイタリア移民が減少した。また、この1924年の法改定では日本からの移民は完全に禁止となる。よってこの時から日本人のアメリカ移住は途絶えることになり、この移民割当法は1965年まで維持された。
1941年12月に日本は米国の真珠湾を攻撃する。これをきっかけとして、アメリカの市民権をもっていた2世を含めて、日系人12万人が強制収容所へ送られることとなった。1942年3月から日系人たちは強制的に居住地から立ち退きとなり、全米各地の辺鄙な地にある収容所に追いやられる。この立地は砂漠地帯など酷暑酷寒の地も多かったらしく、移民たちの生活は困難を極めた。
日米の移民政策を俯瞰すると、こんな具合であったことが、横浜の海外移住資料館で知ることができる。更に、ここには米国の次に海外移住地となる戦後のブラジル移民のブースやその後の日系社会の様子などのブースもある。2022年4月のリニューアルで更に区分が明確になり、先の写真花嫁の解説なども追加されていた。今や海外各地で働く日本人は多い、その先駆けとなった移住者たちを知る、素晴らしい博物館なので、是非お薦めしたい。(次回に続く)