前回からの続き。ベルリンでオートバイをレンタルし、いよいよ旧東ドイツ(DDR)圏のロングツーリング最終日。早朝、デッサウ(Dessau)近郊のテルテン(Törten)でバウハウスの集合住宅を眺め、ベルリンに一気に戻りベルリン南西のダーレム(Dahlem)地区へ。ここでカラヤンらがレコード収録に使ったのイエス・キリスト教会(Jesus-Christus-Kirche)とブリュッケ美術館(Brücke Museum)を訪れる。
● アウトバーンで一気にベルリンに帰る
● 今回HONDAのオートバイを借りて
● ダーレム地区のイエス・キリスト教会(Jesus-Christus-Kirche Dahlem)にて
● ブリュッケ美術館(Bruecke Museum Berlin)を訪ねる
● ブリュッケ派(Die Brücke)とは
● アウトバーンで一気にベルリンに帰る
ここからベルリンまでは120km。朝はのんびりとデッサウ郊外のバウハウスの建物を見て、そこからは高速道路、アウトバーンで一気にベルリンに戻る。
速度制限のないアウトバーンと言っても異国の地なので、超安全運転で追い越し車線には入らず、トラックの後ろにひっついて、スリップストリームを活用して楽ちん運転でしのぐ。そもそも500cc程度の排気量のバイクは加速性能も悪く、時速200km超で走るベンツやアウディがいるアウトバーンの追い越し車線に入るのは、かなり怖い。更に、カウル(風防)のない場合での高速走行は風圧もキツいので肩こりなど疲労も大きいので、ノンビリが1番だ。
ひとつ驚いたのは、こちらでは高速道路でもよくブレーキをかけること。200km程度で走っている車も多いから、ちょっとした減速の際にもブレーキを踏むことになるのだろう。それで、BMWのバイク等には早い時期からABS(アンチロック・ブレーキシステム)がついていたのかと合点がいった。今回借りたHONDAのオートバイにもABS装備であり心強い。最初アウトバーンで高速走行をしている時に、前方でブレーキランプが点滅するのを見たときは、慣れずに心臓がバクバクしたものだった。
そう言えば、旧東ドイツ時代の車である「トラバント」はツーリング中、3回ほど走っている姿を見かけた。その中で1回はなんとアウトバーン上であった。500ccの2サイクルエンジンで四人乗りの車、100kmで走るのが精一杯の様子であったし、そんなにスピードを出して停車する力があるのだろうかと、他人事ながら心配になった。
● 今回HONDAのオートバイを借りて
欧州の田舎町や郊外では、道路が石畳の場合も普通であるし、田舎ではぬかるみやダートにも遭遇することもあるから、軽めのツーリングの際は中型バイク(排気量500~700cc)がよいようだ。また、町中では道幅が極端に狭いところもあり、中型バイクであると軽々とUターンができるのがよい。オーバーリッター車では、この取り回しはキツいと思う。
今回、アウトバーンを走るのは一日100km程度だったので排気量500ccのバイクで問題なかったが、高速道路を長く走るならば(ベルリンからミュンヘンまで行くと500km程度)700ccくらいは最低あったほうがよいだろう。速度無制限のアウトバーンで車に合わせて走るには500ccだと少々厳しいものがあった。また、平野部では風が強く突風が吹くところも多いので、長距離ツーリングやタンデム走行ではオーバーリッター車の重量による安定性が懐かしく感じた。パーキングエリアなどで眺めていると、やはりタンデム(2人乗り)の年配のライダーは大型のBMW等に乗っている方が圧倒的に多かった。
今回、HONDA車にしたのは、レンタル料が安かったことに加えて、前回ニュージーランドツーリングで、HONDA車に乗った際の安定感、操作性がすこぶるよかった為だった。今回は比較的新しい車種 HONDA CBF500 を用意してくれ、これがくねくねコーナーでは曲がるし、なんとも心地よく、車体が軽く感じられた。やはり安心のHONDAである、上手に操縦ができすぎて、運転をしていても面白みはないが、慣れぬ旅先での運転ではこれくらいがちょうど良いし、テューリンゲンの森のワインディング走行はとても楽しめた。
イモビライザー(盗難防止装置)が標準でついているのもよかった。実はこれが大きな安心材料となる。ちょっと降りた隙に荷物ごとバイクがなくなっていたなんて事態は旅先では特に避けたい。ただ、アメリカでは必ず貸与されるチェーンロック(盗難防止用に車輪もしくはディスクブレーキにはめるチェーン)をベルリンのレンタルバイクショップでリクエストしたところ、「ネイキッド(シンプルなデザインタイプのバイク)は盗難の心配はないよ、盗まれるのはレーサータイプだから」と言われた(笑)。確かに中型のレーサータイプに乗った若者をツーリング中にも多く見かけた。
どの国に行ってもバイクにまたがって旅している姿は、好意的に迎えられることが多い。田舎のカフェでバイクを前にしてコーヒーを飲んでいるだけで、いろいろな人に話しかけられる。路肩で停車しているとわざわざ車を停めてウィンドウを開けて「こっちに数キロ行ってから写真を撮るといいよ、ここ以上によい景色だよ」と話しかけられたりもする。雨風を受けながらの酔狂な旅姿で信号待ちをしていると心配して「道はわかっているのか?」とご婦人が声をかけてくれたこともあった。
今回走った界隈のドイツ人の方もとても親切で、よく話しかけてもらった。ちょっと停まってGPSを眺めていると、車を停めてウィンドウを下げて問いかけてくる。さりげない会話だが、笑顔や温かい配慮が旅の思い出に華を添える。特に今回はほんわかすることの多いバイク旅だった。
● ダーレム地区のイエス・キリスト教会(Jesus-Christus-Kirche Dahlem)にて
ベルリンに戻ってきて、まず立ち寄ったのはダーレム地区のイエス・キリスト教会(Jesus-Christus-Kirche Dahlem)へ。ここはベルリンフィルなどの優秀録音がたくさん生まれた教会、カラヤンの優秀録音はほとんどこちらで収録されている。月曜日なので中には入れぬ様子で残念。住宅街の真ん中のこじんまりとした普通の教会でちょっと意外であった。
● ブリュッケ美術館(Bruecke Museum Berlin)を訪ねる
イエス・キリスト教会から3kmほど離れた同じくダーレム地区にはブリュッケ美術館 (Bruecke Museum Berlin)がある。ドイツ表現主義のブリュッケ派 (Bruecke)の作品の美術館で、アート好きには超お勧めの美術館である。建物は小さいが、採光も上手で壁の色も絵に合わせつつ独特、落ち着いた雰囲気ながら面白い美術館だ。
小さい美術館の割にミュージアムショップも充実しており、お土産にポスターを3つ購入した。一つ10ユーロ程度。額に入れるとけっこう見栄えがするので、旅先ではこうしてポスターを購入している。美術館の片隅で立ったまま購入したポスター3つを1つのロールにまとめようと四苦八苦していると、スタッフの方が出向いてくださり、手際よくクルクルっと巻いてくれる。ショップの方がとても親切だった。
こちらのブリュッケ派の画家キルヒナー(Ernst Ludwig Kirchner)の作品「芸術家・マルツェッラ」( Artistin Marcella)を美術館のシンボルとして露出強化中らしく、ミュージアムショップでは、この絵をあしらったグッズがいくつか販売されている。確かに、今に通じるかわいい絵である。
● ブリュッケ派(Die Brücke)とは
ブリュッケとは、ドイツ語の「橋」の意で「作品が未来の芸術への架け橋となって欲しい」との意味で発足した建築家発祥の画家グループの名称。時は1900年初頭で、ワイマール文化の勃興と時を同じくして結成された。このグループはドイツ表現主義のはしりであって、これまで巡ってきたバウハウスの文脈とは方向性が異なるが、ほぼ同じ時代の芸術活動である。
ブリュッケ派は、カンディンスキーなどが結成した美術グループ「青騎士」とちょうど時を同じくする。「青騎士」は抽象美術やシュールレアリズムなど流行のスタイルと結びついたために当時から有名であった。一方、ブリュッケ派は元は中世のデューラーやクラナッハなどの延長上の画風だが明確な統一感もなく、時代の潮流にのったものではなかった。ブリュッケ派はドレスデンで発足した当時、アルテ・マイスター絵画館(Gemäldegalerie Alte Meister)で先の画家やルネサンスやバロック名画に度々触れており、その影響を大きく受けているという。
このドレスデンの初期時代は自然や裸婦などの絵も多く、ゴーギャンやゴッホの影響とみる向きもある。そして、ベルリンへ活動を移す前後から、彼らの作品に変化がみられる。特にキルヒナーの作品は大都市をテーマにしたものが増え、作風も大きく変わる。このベルリンの世相を独特のタッチで如実に描く彼の絵は、とても気に入っている。
ブリュッケ派は1905年設立したが、 1911年にベルリンに活動場所を移す。そして1913年に解散となる。当時のベルリンは第一次大戦前夜。ドイツ帝国が3B政策などで世界政策を推し進め、帝国主義各国に肩を並べつつあった時である。急速に世界都市に変貌する都市、不穏かつ激動する政治社会情勢はさぞかし刺激ある景色だったろう。
キルヒナーもベルリンの空気に触れたことやキュビズムなど新たな息吹との出会ったことが触媒となり、このベルリン時代の絵からは明確さ、鋭さが加わり、描かれる表情や色彩から猥雑な時代性も色濃く描き出している。
ブリュッケ派のメンバーはこの状況でこぞって腕を振るう。ダンス、サーカスなどを描き、キャバレー、ヴァリエテのポスター製作などにも関わるようになった。 (次回に続く)