前回からの続き。ベルリンでオートバイをレンタルし、旧東ドイツ(DDR)圏のロングツーリング中、今回の旅のメインテーマは「バウハウスの史跡巡り」。バウハウスとはドイツの小さな学校で、たった14年間と短期間の活動ながら、後世のモダンデザインに大きな影響を与えた。
この14年の間にバウハウスはその本拠地を点々と移している。最初は本格的な国立学校としてワイマール / ヴァイマル(Weimar)に、次は市長の後押しもあって市立学校としてデッサウ(Dessau)に、最後は短命に終わる私設学校として首都ベルリン(Berlin)に移動する。実はこの3都市、ちょっとしたバイクツーリングには、ほどよい距離感なのだ。また、各都市内には徒歩で回るには不可能な数のバウハウス建物群が点在しているので、どうしても移動のための足が必要になる。その面でもオートバイは重宝した。
本日目指すのはデッサウ(Dessau)、ここには有名なデッサウ・バウハウス校(Bauhaus Dessau)以外にも、バウハウスと親密だった企業ユンカースについて知ることができるフーゴー・ユンカース技術博物館 (Technikmuseum Hugo Junkers)がある。
● ワイマール近郊のハウス・アム・ホルンとニーチェ・アルヒーフを眺めてデッサウへ
● バウハウスに縁の深いユンカース社、元工場を転用したユンカース技術博物館
● バウハウス デッサウ校へ
● バウハウス活動の変遷、校長-所在地-教育形態
本日の行程、早朝ワイマール近郊の史跡を軽く巡ってデッサウに向かう。デッサウまでは100kmちょいと近いので高速道路には乗らず一昨日通ったワイナリー街道を逆に走る。デッサウ到着後はホテルに荷物を置き、バウハウス関係史跡をまわる。
● ワイマール近郊のハウス・アム・ホルンとニーチェ・アルヒーフを眺めてデッサウへ
オートバイで軽くまわれそうだったので、早朝ワイマール郊外のバウハウスの建築物を巡回する。ワイマールの中心部から5分ほどバイクで走れば新緑の美しい景色、ドイツの地方都市は巡っていて楽しい。
ハウス・アム・ホルン(Haus am Horn)はゲオルク・ムッヘ(Georg Muche)が設計し、1923年に建てられた。正方形で鉄とコンクリートによるシンプルな構成は、1926年のデッサウそばのテルテン(Törten)のスチールハウスや集合住宅の前身のようなものが既にワイマール校時代に存在したことになる。こちらのキッチンやバスルームの給湯や暖房を担うのはユンカース製のボイラーで、本日午後にデッサウのフーゴー・ユンカース技術博物館にて、それらの実物を拝むことになる。
ついでに同じくワイマール郊外のニーチェ・アルヒーフ(Nietzsche-Archiv)も外から眺めてみた。ニーチェが狂気故に1900年9月25日に死去した家がこちらだ。現在は図書館になっているが、早朝なので当然まだオープンしていない。
そして、ワイマールを離れデッサウに向かう。デッサウまでは100Km程度しかなく時間に余裕があるので、高速道路(アウトバーン)には乗らずに先日通ったワイン街道を逆にまわる。逆にまわった景色は新鮮に見え、前回は背をして走っていたのがもったいないほど。しかも、久しぶりに朝から天気がよく、暖かく気持ちのよいツーリングとなる。
● バウハウスに縁の深いユンカース社、元工場を転用したユンカース技術博物館
デッサウ ホテルに荷物を置いて、まずユンカース技術博物館へ向かう。宮崎駿監督の映画『風立ちぬ』では何度かデッサウの話題やシーンが登場するが、訪れてみると、この博物館の工場のイメージが作品に多少なりとも影響しているような気がする。映画の中で、ほのめかされていたようにユンカースはナチス政権に対立していた為、不遇の最期となるが、圧倒的なアイデアと技術的手腕で後世に名を残した人がユンカースである。
そして、ユンカースが興したユンカース社は飛行機やそのエンジンで有名だが、元は温水器の会社でボイラーやラジエータを造っていた。その為、暖房装置や湯沸かし器でバウハウスとの縁が深く、デッサウの校舎など含めてユンカースのこれら装置が導入され、その技術が生かされている。また、ユンカースはバウハウス同様に住宅も手がけており、実験的ながらバウハウス同様にプレハブ住宅の製造を試みていたようだ。これはスチールパネルハウス(1933年)と呼ばれ、スチールの壁の間にはグラスウールが仕込まれているなど先進的であった。これらもバウハウスによるテルテンのスチールハウスや今朝ほど眺めたハウス・アム・ホルンに通底するものがある。
また、建物と生活のブースとして飾られていたキッチン関係の展示もある。素材として金属が家具などでも使われるようになり、あわせてバウハウスデザインの美しさを称えていた。
そしてジェットエンジンまで造ったユンカースだが、ユンカースの航空機と言えばこちら、Ju 52(ユー 52)である。第二次大戦開戦までの1930年代にかけてルフトハンザ社の主力旅客機であり、戦中も輸送機などで大活躍した。就航当時のJu 52 は先進的な機体であり、 銀色に輝き波打つジュラルミンを鋼管骨格に貼り、軽量かつ強固な機体として画期的であった。
しかし、大戦途中では、その設計の古さが露呈してしまう。この波打つジュラルミンの機体では空気抵抗が大きく、ほぼ時を同じくして登場するモノコック構造(丸みを帯びた外板でフレームを包む)の流線型の機体に主流は移ってしまう。
この機体は登場口から中に入ることができる。内部から見てもジュラルミンの板1枚なので見るからに軽そうだが、触れてみると板がベコベコとした手触り、ヤワな感じが伝わってくる。そして、この板1枚の向こう側は高高度の屋外である、暖房がついているとは言え、冬の搭乗は如何なものだったのかと思う。
● バウハウス デッサウ校へ
デッサウという町は、東ドイツ時代の香りがかなり残っている印象をもった。町中でも古い共産圏時代の単調な建物がいまだに多く、ドレスデンやライプツィヒのような再開発の工事や重機もあまり見かけない。そして、休日も平日も町は静かな様子である。
そういった若干の取り残された感もあってか、バウハウス関係の史跡は重要なデッサウの観光資源となっているようだ。デッサウ・バウハウス校(Bauhaus Dessau)は観光バスが泊まり、バウハウスの展示品とは無関係なお土産まで売っている大きなミュージアムショップまである。元学生寮には一般人が宿泊できるように整備され、もよりのバウハウス史跡のコーンハウスでは今も食事も可能だ。そして、教員たちの為に建てられたマイスターハウスの入場料は7.5ユーロと少々割高である。
バウハウス デッサウ校はデッサウの駅の裏からすぐのところにある。この好立地な土地をデッサウ市がバウハウスに提供して建てられた。その姿は西洋建築によく見られる左右対称な部分は一切なく、真四角の建物が3方向に延びている構造、壁面は見事なガラス張りである。当時の人の目にはさぞかし斬新に見えたことだろう。
このデッサウの校舎は第2次世界大戦の連合軍の爆撃で大被害を受けた。それを旧東ドイツが1970年代に修復をおこなって現在の姿になっている。あれだけ古典的な建築を次々と破壊した共産圏の国がバウハウスにかぎっては修復再建をおこなったのは根底としてバウハウスの思考を国家も受入れていたのかもしれない。
● バウハウス活動の変遷、校長-所在地-教育形態
バウハウスの歴史における所在地と校長の変遷を押さえておくことは重要だ。所在地と校長によって活動の方向性が大きく異なるからだ。
実はグロピウスの後を継いだマイヤー校長の時代になって初めて、バウハウスには建築学科ができる。グロピウス校長時代はグロピウスの個人事務所で設計がなされ、それをバウハウスの学生が手伝っていた。つまり、バウハウスが体系だって建築を教えるようになったのはデッサウに移ってしばらくした後、マイヤー校長時代になってからだった。その為、デッサウの校舎や隣接するマイスターハウスはグロピウスの個人事務所にて設計が進められたものである。
≪バウハウスの所在地と校長の変遷≫
期間 校名と所在地 校長名
1919年〜1925年 国立バウハウス・ワイマール ヴァルター・グロピウス
1925年〜1928年 市立バウハウス・デッサウ ヴァルター・グロピウス
1928年〜1930年 市立バウハウス・デッサウ ハンネス・マイヤー
1930年〜1932年 市立バウハウス・デッサウ ミース・ファン・デル・ローエ
1932年〜1933年 私立バウハウス・ベルリン ミース・ファン・デル・ローエ
教育形態でもデッサウに移ってから大きな進化が見られる。そもそもバウハウスの教育はワイマール校時代に理論と実技の2つのコースに分かれていた。ひとつは理論としてフォルム・マイスター(形態親方)の下で形や色、材質などの表現や構成を学ぶ形態教育。もうひとつは実技としてヴェルク・マイスター(工匠親方)の下で絵画、彫刻、陶芸、テキスタイル等を学ぶ工作教育。そして、受講生が試験に合格すると親方(マイスター)になれるというドイツならではスタイルである。
これがデッサウ校時代になると、形態教育と工作教育を1人の親方が同時に教えることになった。ワイマールで育成された者が双方のコースを受け持つことができるようになった故だと言う。バウハウス建築のホテル「ハウス・デス・フォルケス」(Haus des Volkes)の記事で書いたアルフレッド・アーントもワイマール校で学んだ学生であり、後にデッサウ校で教鞭をとる形なったのは、そういう仕組みだったのだ。
そしてグロピウスの後を継いだマイヤー校長は建築学科をつくるなど体系を更に改変し、また、共産主義者であった彼は建築と社会との関わりをより重視する教育形態に変えていく。
1924年ワイマールでは、政権が左派から右派に交代しバウハウスワイマール校の予算は大幅に削減された。そこで、グロピウスは当時工業都市として発展途上であったデッサウの市長と話をつけ、1925年にデッサウへのバウハウス移転にこぎつける。しかし、ここデッサウ市でもナチスが市の政治を制し、市の条令により1932年にバウハウスの閉鎖が決まってしまう。
こうした数奇な運命の中でグロピウスが選択した後任のマイヤー校長は裏目にでた。彼は芸術的観点より機能をより重視した思考でグロピウスと合わなかっただけでなく共産主義思想の持ち主だった。そもそもワイマール時代から左派的に見られていたバウハウスが右派勢力の増大する環境に抗しきれるわけもない。結局、外部からの攻撃が激化する中、八方ふさがりのマイヤーは解任され、非政治的なミース・ファン・デル・ローエが校長となる。(次回に続く)